2010年7月29日木曜日

バブル長者の人生観も・・・

直接の知り合いではないのですが、ある一世を風靡した不動産ベンチャーで、株式公開まで果たした社長さんから暑中見舞いをいただいております。

不動産市況や株式市況に翻弄された2000年代、絶好調のときも、絶不調のときも、その時々の「生々しい感想」を時候の挨拶に代えてしたためてこられ、虚礼とは違う味わいを楽しませてもらってきました。

その社長からの、今年の暑中見舞いで、「これからの時代に必要なこと」と列挙されていることが、

①知恵のある消費、投資活動

②本質的でシンプルな振る舞いとデザイン

③自分が何を体験するかが価値

④価格より必要な価値

⑤長く続く洗練されたサービス

その社長さんと私とは、出自も、履歴も、財産も、財産の増減の激しさも、まるでちがうし、なによりも戦っている業界が違いますが、違う言葉で書かれていても、今こうやって価値観が収斂してきたことに、失われた時代を感ずるし、また時代が失われただけでは決してないとの確信も抱きます。外国為替証拠金(FX)業界でも必要とされることは同じなのではないかと。

個人の生き方についても。ついでに芸術産業についても。
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2010年7月26日月曜日

マスゴミと政治屋と衆愚の国、ニッポン

週末、とあるソシアルネットワークで、上記タイトルで日記を書きまして、ありがたいコメントを幾つか頂きましたので、コメントをいただいた方を匿名にして、わたくしの返事と一緒に転載することにしました。

まずは、日記本文。

そんなに毎週毎週世論調査するんだったら、選挙なんていらないんじゃないかい!?

元のニュースねたはコチラ。
「内閣不支持が支持を逆転」(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2010072300571



続いてコメント集・・・
(Aさん)世論調査って何処まで正確なんでしょうか?それにしても、国のトップがあんなにころころ代わっても・・・・という日本の政府のことが良く分らないです。

(Aさんへの私の返事)統計的には或る程度の信ぴょう性はあるのでしょう。選挙当日の出口調査もそのようです。たまに出口調査を過信し過ぎて、当選確実の取消とかありますが(汗)。

ローマ帝国の末期には、為政者たちは、大衆の憂さ晴らしのために、文字通りサドンデスの格闘技を用意しました。

いまの日本は、為政者たち自身が、マスゴミに踊らされ、大衆の憂さ晴らしのためのサドンデスの格闘技をやらされているというのが実態では・・・・

選挙結果など、翌日の新聞やネットで遅くないのですが、どうしてもテレビの開票速報を見てしまうのは、落選議員の事務所の御通夜のような風景に或る種のカタルシスまたは諸行無常を感じたい大衆の俗物根性に、ビジネスモデル崩壊寸前のマスゴミが取りいっているということだと感じています。



(Bさん)異論はいろいろあるかもしれませんが…降板はやめてほしいですー

(Bさんへの私の返事)ねじれ国会でやめていくリーダーたちに対してこれまで国民は同情していたでしょうか?無責任だという声を浴びせ続けただけだと記憶しています。これもマスゴミの誘導と、それを正論だと思い込んでしまう民度の低さのせいです。わたしも、Bさんの言うように、首相が1年任期(人気)というのはいい加減にしてほしいとは思うが・・・



(Cさん)マスゴミと政治屋と衆愚の国、ニッポン ・・・的を得たタイトルです。最近、日本の政治にはホント<うんざり>ですね。

(Cさんへの私の返事)清教徒革命以降、イギリスではカフェ、当時は珈琲ハウスと言われていたそうですが、ここが政治談議の場所として盛り上がり、一挙にカフェブームになったと、最近のNHKの番組でやっておりました。これからは、カフェ(だけ)ではなくて、立ち呑みのワインハウスが政治談議の場所としてオピニオンリーダー化していく予感がするのは、わたしだけでしょうか。。。



ちなみにCさんは、兜町でワインの輸入業を営む傍らその事務所を開放して、安くておいしいワインを立ち呑みさせてくれている店長さんなのです。
http://www.bookin.co.jp/



(Dさん)まあ、そうはいっても、政治をやろうとする人達には色んな意味で頭が下がりますよ。怨念にまみれて、昨日の友は今日の敵で、地獄の沙汰も金次第、私なんて一日たりとも生きてけ無いですわ。

(Dさんへの私の返事) そう、その通りなんです。ボランティア団体の事務局長と一緒で、真面目にやるのがバカバカしいので、ちゃんとした「なり手」が居ないのです。今回の選挙で、実は一番うんざりしたのは、菅首相の消費税のブレ発言というよりは、旧保守王国の過疎都道府県の選挙区で自民党系の二世議員が再び圧勝しているという事実です。
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2010年7月23日金曜日

絶頂期を迎えた「大輪の花」~アンナ・ネトレプコ


三歩先を読むオンリーワン情報誌「ザ・ファクタ」【月刊FACTA】 は音楽系雑誌ではありません。

が、毎月、珠玉の音楽評論を掲載しています(稀に、根拠に乏しい誹謗中傷もあり、読者を飽きさせません!)。

書店に並んだばかりの8月号の49頁の記事の一部を紹介しますと、

ロシアのソプラノ、アンナ・ネトレプコ(1971年生まれ)は目下オペラ歌手としてキャリアの絶頂にある。今年6月にはロンドン・コヴェントガーデンのロイヤル・オペラでプレヴォー原作、マスネ作曲のフランス語歌劇『マノン』の新演出(ロラン・ベリー)初演で主役マノンを務め、極めて安定した発声テクニックと巧みな演技の兼備で観客を圧倒した。

世界経済の停滞長期化を受け、大がかりなオペラの新演出には複数の歌劇場で費用を負担する共同制作が増えつつある。今回の『マノン』もコヴェントガーデンとニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ミラノのスカラ座、仏トゥールーズ・キャピトル歌劇場の共同制作だが、参加者数が「4」まで膨らむのは極めて異例。2000年代半ば以降の「アンナ旋風」は衰えるどころか威力を増す一方だ。9月には東京文化会館のロイヤル・オペラ日本公演で、他の3都市より早く『マノン』を拝める。

(中略)

・・・・声楽を学んだものの、なかなか芽が出ず、マイリンスキー劇場で掃除のアルバイトをしていたところをゲルギエフに目撃され、オーディションを受けるよう勧められ合格・・・・

(中略)

・・・・「出産後、発声が楽になって安定、声楽的課題の克服以上に演技へ傾倒できるようになった」という。・・・・

記事全文が素晴らしいので、是非書店で、または定期購読で、月刊ファクタ をお読みください。政治と経済の真実を知るためにもなります。

しかし、このネトレプコの記事で、一番ギクっとしたのは、締めのこの一文。

・・・プリマドンナにありがちな強烈な嫉妬心、エゴもあまり感じさせない・・・・

オペラ制作の端くれとしては、まことに目に沁みるひとことであります。
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2010年7月16日金曜日

「愛の調べ」も転調が妙薬に~シューマンの職人技


「愛の調べ」とは、クララ=シューマン役のキャサリン=ヘプバーンの驚異的熱演を忘れることが出来ないシューマン夫妻(・・・とブラームスとリスト・・・)の物語です。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000LXIOKO

この映画の中で、最も重要な音楽作品がロベルト=シューマンが作曲した歌曲集「ミルテの花」の第一曲目「献呈」と考えて良いでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=aMYT3wyFz1o

転調シリーズ(!?)前回の

ドンジョヴァンニ~変装と転調の「妙なる調和」
の最後のほうに、モーツァルトが晩年ドンジョヴァンニ作曲時に到達した

臨時記号(♯、♭、♮)を一度に4つも加えて調性をワープさせる

という技法が、その後、ロッシーニやドニゼッティなどイタリアオペラの礎を築いた大作曲家が主として喜劇の分野で効果的に使ったというお話をしました。

一方、この時代のイタリアオペラ、特に喜劇を忌み嫌った作曲家が居ました。シューマンこそがその人です。確かに、「ミルテの花」だけでなく「詩人の恋」や二つの「リーダークライス」を聴くにつけ、オーソレミオ的なオペラブッファとは相容れない価値観を感じることは出来ます。

しかし、この「献呈」、ハイパーリンクを貼った映画の一場面ではピアノ曲として(前半がリスト編曲の言わばヴィルトゥオーゾ版、後半がシューマンの原曲~いずれも実際に弾いているのはルービンシュタイン)では、ドイツリートの中でも珍しい、その臨時記号4つによる調性のワープが見事に組み込まれているのです。

ハイパーリンクからyoutubeに這入っていただきますと、サリエリに似た男(と思うのは私だけ!?これがフランツ=リスト役の俳優です)が、シューマン夫妻とブラームスの前で、自分の編曲を「献呈」するシーンが出て参ります。

「どうだ、凄いだろう」と自慢げに弾くリストを尻目に、クララがロベルトに「違うわ・・・」と耳打ちをする場面。この一瞬で、♭が4つついているのです。

この「献呈」という曲も、短い歌曲には良く見られる

A⇒B⇒A’

という形式で出来ています。いま申し上げた♭4つは、AからBに移る瞬間に追加されています。

A⇒B⇒A’という形式の小品は、短い歌だけでなく、バッハの時代以前の舞曲(メヌエットやロンドなど)や、モーツァルトのオペラの中のアリアや重唱でも極々普通に見られますが、その殆どは、AからBに映るときに臨時記号がひとつだけつく転調です。

(例:ドンジョヴァンニから「手に手を取って」)
http://www.youtube.com/watch?v=GY-_3oCnqtY
(シエピ+フルトヴェングラー)

「献呈」の形式美の斬新さは、移動度で読めば、「ド」で終わるAの部分から、その同じ音を「ミ」に読み替えて、すんなりと別世界に聴衆をいざなう点がひとつ。

じつはもう一つのほうが凄いのです。

リストがノリにノッて「献呈」リスト版を演奏しているのに、クララは「技巧だけじゃない」と不満を言いますが、それに対してロベルトが「静かに。・・・面白いじゃないか」とその場をおさめる場面。ロベルトの

It's interesting...

という瞬間が、Bの部分の冒頭の臨時記号の4つが丸々全部取り外される瞬間なのです。

通常、A⇒B⇒A’という形式の曲であれば、最後のA’に移る直前(の1小節)で転調が解除されます。It's interestingの瞬間たるや、再現部A'の開始の、、、ずいぶん前、、、なのです。

シューマンほど、自分の個性や才能の発露を禁欲する一方で、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの作品を、作曲の技術の集合体として研究しつくして、一歩ずつ上を目指そうと努力した作曲家はなかなか居ないと思います。その作品のユニヴァースの中にあっても、「献呈」の、特に二番目の転調のタイミングと主旋律への練り込み方は、頭ひとつ抜きん出ていると思います。

映画の冒頭にもあるように、クララへの求婚のメッセージとして作られた「献呈」は、感嘆すべき職人技で練り込まれた愛の妙薬だった。。。

愛の妙薬だなんて言うと、泉下のシューマンの逆鱗に触れるでしょうか。ロッシーニら、当時のオペラ作曲家の売れっ子たちへの批判、非難は、子供向けに作られたピアノ曲集「ユーゲント・アルバム」の序文でハッキリと表明されており、「メロディー偏重のイタリアオペラなど聴く暇があったら、バッハの平均律を練習しなさい」らしきことを書いております。

まあ、私はどちらも均等に好きですが・・・

映画「愛の調べ」は、ブラームス問題など、史実とはかなり異なる美談に仕上げられていることでも有名です。いわんや細部に至っては事実がどうだったか判ったものではありませんが、映画監督や音楽監督など制作側が物凄く丁寧に作っておられますので、リストがシューマン=リスト「献呈」を弾く前に「シューマン教授の素晴らしい『メロディー』に・・・」という科白に、ある種の皮肉を込めた可能性はあります。

この映画で触れられているのは、リストが音楽家シューマンの良き擁護者であり支持者であること(ただし、結婚に関わる裁判でクララとロベルト側に立った事実はない)だけですが、もうひとつ、「イタリアオペラもそんなに非難に値するものじゃないよ」と言ってシューマンとロッシーニとの仲裁に乗り出した(が無駄な努力であったこと)、リストはシューマンを高く評価していたが、シューマンはリストを評価していなかったなどなど、いろいろあります。

シューマンが評価をしたのは、リストではなく、ショパンでした。「脱帽せよ。天才が現れた」と最大限の賛辞を贈らせたきっかけになったショパンの曲は作品番号2番の、ドンジョヴァンニの主題による変奏曲です。

主題とは先述の「手に手を取って」
http://www.youtube.com/watch?v=QNGQu0aRqAY
http://www.youtube.com/watch?v=kuxSL_dzzWM&NR=1

「序奏のLargoが長すぎる。テーマは何時始まるんだ!?」と気の短い方の為に、お伝えすると、、、6分30秒過ぎであります。

2010年7月14日水曜日

「月刊総合誌FACTAは日本振興銀行に対し不当訴訟の損害賠償請求訴訟を提起します

日本振興銀行前会長、木村剛が本日、検査忌避による銀行法違反容疑で逮捕された事態を受けて、弊誌は同行および木村、小畠晴喜取締役会議長をはじめとする同行経営陣に対し、不当訴訟による損害賠償請求訴訟(請求額約3000万円)を提起いたします。

本件の立件に1年以上先駆けて、弊誌は昨年5月号(09年4月20日発行)から4回にわたり振興銀行の内情を調査報道しました。これに対し同行は名誉を棄損されたとして、多額の損害賠償及び謝罪広告掲載を求める訴訟3件を提起しました。弊誌の言論および取材を訴訟によって封殺し、実態が露見するのを妨害しようとするとともに、弊誌報道に追随しようとした他のメディアに対しても「書いたら訴える」と威嚇する意図を持っていたことは明らかです。

先般の警視庁による家宅捜索を受けて、日本振興銀行は代理人を通じて上記3件の訴訟をすべて取り下げました。しかし、訴訟提起から1年余にわたり、弊誌は訴訟対策のために厖大な時間と少なからざる所用経費を割き、他の取材や報道にも支障を来しました。かかる不当な訴訟提起行為は、メディアの表現の自由を圧殺するものとして断じて許されるべきではありません。

捜査当局のリークによらずとも調査報道によって社会的不正を知らしめるべきだとするメディアに対し、ともすれば訴権を濫用することによって隠蔽しようとする企業や組織、さらにはそれに便乗する弁護士が増えております。裁判所もメディア叩きに迎合し、慎重かつ妥当な取材に基づく報道に対しても、厳しい判決を下す例が増えております。このままでは調査報道は萎縮するばかりだと考え、かかる現状に警鐘を鳴らすため弊誌は訴訟を提起することにいたしました。

日本振興銀行問題を他に先駆けて報道した弊誌は、検査忌避による立件は表面的かつ形式的なものにすぎないと考えます。背景には粉飾決算や特別背任等の成立の可能性を含む実態があり、捜査当局には今後ともそうした実態の捜査を進めていただきたいと考える次第です。

七転び八起きブログは、「月刊総合誌FACTA」を応援します。
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2010年7月13日火曜日

「転調」だけではなかった“妙なる調和“-モーツァルト歌劇「ドンジョヴァンニ」

きのうの記事の続きです。


関連記事
マスカーニ作曲 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_24.html
ドニゼッティ作曲 歌劇「愛の妙薬」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_7392.html
プッチーニ作曲 歌劇「蝶々夫人」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_1910.html
ヴェルディ作曲 歌劇「イル・トロヴァトーレ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_3365.html

「転調」とは違うのですが、モーツァルトは、フィガロの結婚で、妙なことをやっています。これは前例があるかどうか確かめておりません。

オーケストラ伴奏と歌とで、調性が違うのです。但し、遠い調性では不可能なので、5度違うだけ(臨時記号1個分に過ぎない)です。

問題の箇所は3幕フィナーレ
http://www.youtube.com/watch?v=hiGubCkAwu4

Eccola marcha andiamoで始まるフィガロの独唱の12小節。オペラらしくない単調なガヴォットにしか聴こえない割には、難しい箇所なのです。

したがって、オケだけ聴くと別の舞曲のように聴こえます。

場面は、ドンジョヴァンニ同様(!?)放蕩児のアルマヴィーヴァ伯爵の怒りを無視して、家来であるフィガロがスザンナとの結婚式を急ごうとし、「ほら、結婚行進曲が流れてきたじゃないっすか。皆さん、参りましょう」という場面。

夫婦関係が冷め切っているにもかかわらず嫉妬心と猜疑心だけは立派に持っている伯爵。その怒りに火がついたのは、その妻(伯爵夫人)と小姓ケルビーノとの関係を疑惑すべき証拠が、スザンナの伯父である庭師アントニオによって暴露されたからです。
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2010年7月12日月曜日

ドンジョヴァンニ~変装と転調の妙なる調和

現在でも上演されているオペラ演目のなかで、獣(けだもの)、すなわち驚愕的な肉食系の男子が主人公となる演目はモーツァルト作曲のダ・ポンテ三部作のひとつ「ドンジョヴァンニ」が最初(で最後)かも知れません。

スペインの伝説的な放蕩児(Libertine)ドンファンをイタリア語読みしたドンジョヴァンニは、その題材の奇抜さだけでなく、近現代の西洋舞台音楽の歴史の中でも、否それだけでなく、モーツァルトの短い生涯の中で星の数ほど作られたあらゆるジャンルの音楽のなかでも、ドンジョヴァンニ以前にはなかった革命的な要素がふんだんに取り入れられています。

ヴェルディやプッチーニのオペラが好きだという人は、演奏する側にも鑑賞する側にも一杯いらっしゃいます。それに比べてモーツァルトはちょっと、、、その感じ、良く判るのですが、過去の音楽の歴史を、19世紀の絢爛豪華な舞台芸術に、さらには20世紀の映画音楽など様々な複合芸術への対応を可能にした転換点に、ドンジョヴァンニの斬新さが位置するような気がしてなりません。

そのモーツァルトの姓であるアマデウスを冠にとったクラシック番組がNHKにあります。演奏を聞かせたり、演奏家を紹介したりするという視点ではなく、クラシック好きにとってもとっつきづらいと思われてきた音楽理論に焦点を当てた番組が、公共放送から伝わってくるときに、私なんかは受信料は安過ぎると思うものなのです。

そのアマデウスで、ラヴェルのボレロを取り上げたとき、「ハ長調で単純なメロディーとリズムがひたすら繰り返されているという奇抜さで有名」だが、最後の最後(音楽用語でコーダ)で、クレッシェンドの極みでいきなりハ長調からホ長調に転調する点を挙げ「こんな斬新な転調は過去の音楽の歴史ではなかった。プロの作曲家連中からすれば、『あゝ、そんな手があったか。』『やられた。先を越された』と感じるに違いない手口だ」と楽理の専門家が喋っていました。

確かにその通りなのです。

もし、お手元にピアノとかオルガンとか鍵盤があれば是非試してみてください。まず、ド+ミ+ソの和音を弾き、続いて(長3度「平行移動」して)ミ+ソ#+シ、更に長3度平行移動して、ラ♭+ド+ミ♭、そして更に長3度平行移動すると、ちょうどオクターヴで最初のド+ミ+ソに戻ります。

なんか、普通のクラシック音楽の曲にも、それどころか馴染みのあるスタンダードジャズにもフォークソングや歌謡曲にも聞き覚えがない和音進行であると感じられると思います。宇宙遊泳をしているような、ワープしているような感覚を覚えさせられる和音進行です。

敢えて、和音進行と転調とをごっちゃにして書きますと、バッハの鍵盤曲(パルティータでもフランス組曲でもインヴェンションでも・・・)の後半部分や、モーツァルトの器楽曲の第一楽章のソナタ形式の展開部には激しい転調が続く局面がありますが、基本はひとつのフレーズに臨時記号が一つ(和音進行で言えば完全5度の上がり下がり)、多くても二つ、極々稀に三つ(完全5度を3段飛びすると、長調と短調が逆転する)、それまでです。したがって、臨時記号(シャープやフラットやナチュラル)が一度に4つ付け加えられるというのは五度圏を駆け巡るという観点からすると極めて遠い調性にぶっ飛ぶ感覚なのです。

NHKの番組アマデウスに戻ると、この前代未聞のワープな転調を発見ないし発明したのが現代作曲家の橋頭保とも言えるラヴェルだというわけです。

なるほど、言いたいのですが、何とモーツァルトはキャリアの晩年に作った渾身のドンジョヴァンニで、既にそれをやり遂げているのです。

ダ・ポンテ三部作にお約束の着せ替えシーン。これがドンジョヴァンニでは二幕初っ端にあります。家来のレポレッロに自分の貴族衣装への変装を強要し、ドンジョヴァンニの振りをしてかつて自分が裏切った女のひとりドンナエルヴィラを口説かせるという場面です。

http://www.youtube.com/watch?v=2gcFAxCU0YE

バルコニーに向かって、レポレッロに口パクさせ、「降りておいで、いとしい人よ」と歌う直前が、シャープ4つのホ長調、一小節でナチュラルが4つついて、ハ長調で甘いメロディーが奏でられます。

もう一箇所は、ドンジョヴァンニが刺殺した騎士長が石像となって再現する2幕後半。「喋れるものなら喋ってみろ。夕食に来るか?」と石像に迫るドンジョヴァンニに「ああ、お招きいただこう」と返答する場面。

http://www.youtube.com/watch?v=I96sWFb2OkM

登場の時間帯はやや短めながら存在感では他の役を圧倒する騎士長は、有名な序曲の再現部の和音進行同様、これまでモーツァルトどころか、印刷された楽譜として残されている過去の音楽にはない独自の転調のキッカケを与える重要な役割を演じているのです。

http://www.youtube.com/watch?v=oF7ocNl6nXo

この有名なシーンを含む二幕フィナーレには、同時代の有名な他の作曲家のオペラ(現在では演奏されることはない)だけでなく、自分のヒット作であるフィガロの結婚の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をもパクった晩餐シーンが含まれます。

http://www.youtube.com/watch?v=kPUk5BQ3yNQ

著作権という概念どころか、個性とかオリジナリティという概念すら乏しかった時代背景を考慮する必要があるのです。

ただそれにしても前例を踏襲しないリスクを何故モーツァルトは、よりによって公演(興行)予算規模の大きいオペラという分野で敢えて冒したのか。今日まで伝えられている金銭感覚のなさだけの仕業なのか。否、声楽意外の分野の方々には失礼ですが、モーツァルトはとりわけ脚本家ダ・ポンテとの邂逅以降は何よりもオペラで成功したいという気持ちが集中していたと逆に考えるべきなのだと思います。

オリジナリティへの敬意が少なかった時代の音楽は、バッハも含めて、音楽というものがより即興的なもので、言いかえれば、クラシック音楽的なものとジャズ的なものとの距離がなかった(楽譜に書きとめておかないことが当たり前の)時代だったと言われています。モーツァルトがバッハを知るようになるのは、実はキャリアの晩年だったのではないか。そこで彼はバッハ独特のフーガの技法や半音階的技法を学んだ。。。メンデルスゾーンがマタイ受難曲を再演しなければバッハは忘れ去られていたままだったと言われますが、その間、バッハは不当に低い評価をされていたというよりは、死んだ作曲家の作品を楽譜を引っ張り出して来て演奏するという習慣が当時まではそれほどなかったということだという話を、ここ最近複数の筋から聞きました。

半音階的な技法なかりせば、騎士長再現の序曲再現部分の和音進行も、不自然なく臨時記号を4つ飛ばす奇抜な転調もモノに出来なかったと考えます。

その後、この臨時記号4つの転調は、さりげなくかつ大胆に、ロッシーニやドニゼッティというイタリアオペラの基礎を作った作曲家たちによって、主として喜劇の世界で不可思議な隠し味として用いられています。

http://www.youtube.com/watch?v=J2vgQfHNWII

この点で、モーツァルトの晩年の偉業は、後の本格的イタリアオペラにとっての大いなる遺産となったと言えるのではないでしょうか。

関連記事
マスカーニ作曲 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_24.html
ドニゼッティ作曲 歌劇「愛の妙薬」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_7392.html
プッチーニ作曲 歌劇「蝶々夫人」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_1910.html
ヴェルディ作曲 歌劇「イル・トロヴァトーレ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_3365.html
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ねじれ国会の悪夢で、どう転んでも円安か!?

週末の参院選直前ブログで、選挙結果の場合分けを通じて、移ろいゆく民意は、民主党の大勝も大敗も望んでおらず、惜敗を経ての「民みん連立」を望んでいるのではなかろうかと分析しました。

結果は、惜敗というよりは大敗でした。万が一(?)みんなの党がごっそり与党議席に加算され、野党議席から減産されても、国民新党の非改選議席を考慮する以前に、僅かながら過半数に至らないという計算結果になります(離反、造反を考慮せず)。

日本海側を中心とする多くの一人区の結果は、民主党にとっては惜敗からは程遠い惨敗ですが、みんなの党と組んでもねじれを解消出来ないというのは、有権者にとっての惜敗なのかも知れません。

「選挙結果なんかは、翌朝のニュースで十分」という合理的な考えを敢えて捨てて、開票速報にチャンネルを回すのは、マスメディアの演出の巧みさなのか、嗜好品や博打と同じで依存症なのか、私も12時までは見ていました。数字上では≪ぎりぎり民主党とみんなの党の連立が無意味≫という最終結論が判明するまでの間も、両党の幹部は、「個別政策協議はあっても、連立は有り得ない」的表現を繰り返していた風景は、東京選挙区での共産党の小池さんとみんなの党の松田さんの激戦ぶりと相俟って視聴率の源泉だったようです。

無論、政治はハッタリと妥協の繰り返しでしょうから、一夜明けてどうなるかは予想だに出来ません。昨夜の時点では、自信満々のみん党幹部が、「自分たちの政策を丸飲みするなら」と高飛車に出るのは心情的にも判るし戦略的にも間違ってはいないのでしょう。

それにしても気になるのが、霞が関や郵政や地方分権など、民主党(すくなくとも菅首相への交代後の)と共同戦線が張れる分野が多いことを強調せずに、「根本が違う」ことを強調し、政策を呑めるかどうかの第一の試金石として日銀法改悪を真っ先に掲げるところは、単なる経済音痴なのか、改革者の仮面を被った「ばら撒き政党」という実態のせいなのか、ベンチャービジネスや外資系企業での成功者たち(の資産形成の手口)は所詮インフレ選好だからなのか、、、、、、兎に角、みんなの党を躍進させた熱狂たるは、表向き小さな政府を志向する革新政党が「中央銀行の貸借対照表を大きくしたくて堪らない」という急先鋒であるという醜い矛盾には全く気付いていないことを、この外国為替証拠金(FX)ブログとしては、指摘しておかざるを得ません。

つまり、民主党がみん党の政策を丸飲みしたとしても、円安。ねじれ国会の再現を食い止められなかったとしても、明らかに政治迷走で円安。

ということです。

勿論、政治迷走は、日本だけではありませんから、今日以降一切円高局面がないということは有り得ないでしょう。なので、慌てずにFXの準備をされたいかたら、コチラ!?

http://phxs.jp/

玄葉政調会長の『速報経過は「消費税よりも(霞が関改革や国会議員定数削減など)無駄削減を先に示せ』というのが民意だと解釈したい」という読解力センスに、一縷の望みを見た気がします。
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2010年7月9日金曜日

民主苦戦-参院選終盤の世論調査に思う

腐った鯛になってしまった小沢=鳩山の置き土産・・・

小沢幹事長(当時)との「刺し違い」により、政党支持率を盛り返せたのは、鳩山首相(当時)の超ファインプレー だと、去る6月3日にこのブログで書きました。棚から牡丹餅どころか、とれたてピチピチの鯛のような置き土産を、菅新総理。彼の消費税発言を、殆どのマスメディアも、そして恐らく国民も、愚かにも程があると断罪しているように見えますが、果たしてそうでしょうか?

代議制民主政治においては、投票行動が有権者の希望する政治や政策に簡単には結びつかないものです。その最たる例こそ、小沢=鳩山体制で、連立の相手として社民党と国民新党が選ばれてしまった直近の事案でしょう。二院制では、永遠にねじれが続くかも知れないエネロス体質の政界では、殆どの有権者にとって不条理な、選挙後の合従連衡については制御不能なのです。

わたしは、小沢=鳩山体制が、かくも脆く、かくも短命だった理由は、普天間問題や政治とカネの問題だけではないと思っています。普天間とは大いに関連しますが、数合わせのためだけに選ばれた連立相手が手枷足枷となり、昨年の衆院選時の有権者の投票行動の基盤であった民主党らしさへの選好や期待が見事に裏切られた点のほうがより重要です。

「腐っても鯛ですから・・・」と、みんなの党に「御裾分け」

民主党らしさを、今更ながらでも、一番引き出しうる連立相手は、やはりと言って良いものかどうか判りませんが、みんなの党ではないか。。。多くの有権者(特に都市部や若年層の有権者)だけでなく、菅総理そのひとも考えていたとしたら、首相交代時の置き土産(みんなの党に流れていた支持率が一挙に民主党に逆流した)を敢えて温存せずに、その半分以上をみんなの党に「御裾分け」してあげた「消費税発言」は計算通りの「国民新党への三行半」であった。そこまで考えるのは、菅総理の権謀術数を買いかぶり過ぎているでしょうか。

殆どのメディアが公表している参院選終盤の世論調査をさっと読むと、ざっくり、次の3つのような、非連続的な場合分けが出来るのではないか。すなわち、

①民主党を勝たせ過ぎても、国民新党と必ずしも手を切らないかも知れない、

②民主党を負けさせ過ぎると例の青鬼くん が出て来てしまう

青鬼くんは立派です。「静かにしていてね」と赤鬼くんに言われているにもかかわらず、「消費税発言のせいで選挙に負けるようなことがあったら、じっとしてないよ」と早速出しゃばり、あたかも約束を守っていないふりをしてくれている、、、

③民主党が適度に負けて、完全に埋没中の国民新党と組む意味がない程度となれば、みんなと党が連立相手にならざるを得ない。

百点満点とは言えない「民みん連合」だが・・・

みんなの党だって、どんなに躍進したって、単独過半数の政権を取れない以上、選挙後民主党とあっさり休戦して、「官僚叩きは自分たちに任せて下さい」という展開に、、、さすがに、善戦の自民と組むことは自己否定となってしまうから有り得ないだろうという前提、、、

繰り返し、菅総理の手練手管については買いかぶり過ぎかも知れませんが、いっぽうで、圧勝確実だった昨年の衆院選の直前に、敢えて民主党を飛び出し、みんなの党に合流した浅尾慶一郎さんのような代議士もいたことを付言したいと思います。彼にあったのは、勇気だけではなくて、先を見通す力だったのかも知れません。

無駄に大きな政府をいよいよ何とかしないといけないというは、私だけでなく、このブログの読者全員が日々考えていらっしゃることだと思います。ただし、それでも、「民みん連合」が百点満点の政治をするとは思っておりません。「デフレの元凶は日銀にある」という主張で凝り固まっているみんなの党の幹部の皆さんには、もう一度良く経済学を勉強してもらいたい(少なくとも謙虚に日銀総裁のレクチャーを聞くべき)だと思います。
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2010年7月7日水曜日

東京駅のエキナカに欲しかった「止まり木」

フェニックス証券のある東京駅の八重洲北口に、朝も昼も晩も食事が楽しめるカフェが誕生しました。大丸東京店の1階の、いつ見ても長蛇の列がバームクーヘンを求めている「ねんりん家」すぐ横(※)に出来たスィーツ&カフェの名前はPERCHOIR(ペルショワール) 。フランス語で「止まり木」という意味だそうです。

(※)タイトルにエキナカと書きましたが、正確に言えば、改札の外なので、(グランスタのように狭義の)エキナカではありません。

店のオープンは昨日ですが、ホームページは私が確認したところによれば本日七夕。

http://www.perchoir.jp/whatsnew.html

ウェブのほうは、まだまだ工事中の箇所がいくつかあるようですが、現実の店は100%開店稼働しており、初日から賑わっています。早速私も、打ち合わせと急ぎのランチに使いましたが、使い勝手の良さに嬉しくなるわ、周りから「美味しい、美味しい」の声が聞こえてくるわ、出だしのテンションは絶好調のようです。

ウェブに拘るFX会社の社長としては、出来たてのホヤホヤのトップページ

http://www.perchoir.jp/index.html

の導入部分のアニメーションの素晴らしいセンスに感動。そのウェブデザイナーさんたちと同様、PERCHOR(ペルショワール)のコラボレーターのうちのおひとり写真家の坂本泰士(サカモトタイシ)さんと邂逅。私にとって写真と言えば、何よりもDAYS JAPANと「チェルノブイリ子ども基金」の広河隆一さんなのですが、社会の底辺を支える生身の人間を写すことを軸にしている坂本泰士さんはもちろん広河隆一さんのことを御存知だという話になり、カフェで大いに盛り上がりました。

返す返すも世間は狭いです。

あまりに混雑すると、私は困るのですが、場所はコチラです。
http://www.perchoir.jp/access.html

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2010年7月6日火曜日

社会保障と経済成長は二者択一ではない

もう17年前のことになります。社会人5年目を迎えた1993年4月、日本興業銀行(当時、現在はみずほグループ)の総合企画部に配属され、人生初の東京生活を始めて1週間。週末、独身寮に住む同期にこう語ったことを覚えています。「たった1週間だが、この会社は老い先短いと確信した。会社を変えることが出来るとすれば、それは役員でもなければ、残念ながら総合企画部でもない。株主(総会)か労働組合しかないだろう」と。

ご覧の通り、形骸化した株主総会にも、御用組合の典型である労組にも、期待できる筈がなく、今日の姿を迎えているわけです。

現在では製造業を含む殆どの大企業が正社員と非正規従業員の理不尽な対立を孕んでいるなかで、もの言わぬ株主と、もの言わぬ非正規従業員の双方から既得権益を収奪し続けようとしているのが企業別労働組合です。当時の銀行は、良きにつけ悪しきにつけ、正規非正規の対立はなく、全員が幹部候補生という稀有な組織でした。組織化率が異例に高い御用組合にも、造反有理の一縷の望みはあったと思ったものでありました。

昨夜のブログ
消費税より前に重要な争点がある「日銀党宣言」
に掲載させていただいた日銀論文
北欧にみる成長補完型セーフティネット~労働市場の柔軟性を高める社会保障政策~
を読むと、常識的には資本の論理(株主の論理)と矛盾対立すると思われる労働組合というものが、目標設定次第では、雇用の促進と成長の促進という一石二鳥をドライブしうることがおわかりいただけます。

格差、経済成長、財政規律、、、これらを全問正解することは政治にとってたいへんな難問であることは間違いないでしょうが、ただいまの日本は何ともはや全問不正解という稀有な状態に落ち込んでいるわけです。この理由も、上記論文で淡々と説明されています。

ひとつだけ取り上げると、「生涯教育」の在り方が全く違うということ。北欧では産業別労働組合が運営する職業訓練、技能訓練であるが、日本では余暇を持て余す人達向けの趣味に費やされ(全国各地に「よくもまあこんなに建設したな・・・」と呆れるほどの量と質の「公民館」で、義理でもなければ聴きに行きたいと誰も思わないような素人演芸会が日夜行なわれている)。後期高齢者医療制度を批判する前に、やることが一杯あったのです。
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2010年7月5日月曜日

消費税より前に重要な争点がある「日銀党宣言」

政治や政策を論ずるときに、日本銀行の話題が出ていれば、その殆どが、金融緩和政策の不徹底(含むインフレ目標を設定しないこと)への批判であると思われます。与党野党を問わず(革新系のごくわずかな代議士を除き)不景気打開の隘路を日銀の不作為に求めるのは常習化しているのであります。

かくして、財政再建と経済成長を両立することは、菅直人首相の言う通り、難問題であることは確かです。選挙前のタブーとして定着している消費税問題を敢えて争点にした、内閣支持率再び急落中の同氏の清々しさに一票を投じたい気持ちはあります。

さはさりながら、消費税云々以前に重要な争点があることを、実にその日銀が先刻アップした論文は示しています。

北欧にみる成長補完型セーフティネット~労働市場の柔軟性を高める社会保障政策~

本文は長いですが、どうか冒頭の要約と、後半のグラフィックだけでも御一瞥下さい。この国の不幸が、主として大企業や官僚機構の(本質的には持続不能であることを自他ともに認めている)終身雇用と年功序列、それらの既得権益を無理矢理支える企業別労働組合と労働法制(含む解雇法制における重要な判例)であることがおわかりいただけます。

七転び八起きブログで繰り返し主張してきたこの争点ですが、この国の更に不幸な点は、この既得権益を本気で打破しようとしている政治家が、私の知る限り、二大政党にも第三極の諸派にも伝統的革新野党にもいらっしゃらないことです。
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