2016年2月10日水曜日

マイナス金利でも円高?欧州の銀行不安と世界経済の減速だけで説明できるのか??

マイナス「金利」とマイナス「利回り」

黒田日銀総裁がマイナス金利を発表したのが1/29(金)。ここでのマイナス金利は市中銀行の日銀預け金の一部に手数料を課すという話。日銀預け金の「金利」は、言わば、1日物金利です。一週間と少し経過し、10年物日本国債の「利回り」までマイナスになってしまいました。

1日物金利をマイナスにすることは銀行間の資金過不足の決済に使われる中央銀行預け金に限れば技術的に難しくなく、ユーロ圏やスイスなどで前例があることは、最近良く知られています。

《マイナス金利は嫌なので、銀行間の資金化不足を、現金輸送車で!》、というわけには参りません。現実的物理的に困難、というか、そのほうがコストが掛かります。

どうでも良い話ですが、わたくしは22歳から23歳のころ、しょっちゅう現金輸送車に載せて、もとい、乗せてもらっていました。

いっぽう、10年物の国債の利回りがマイナスになるというのは、国債という有価証券を持っている人が、毎年(※)受け取る利息の(ざっくり)合計金額よりも、償還損(※※)のほうが大きくなったという現象です。

(※)実際には半年ごとに・・・・・・

(※※)満期保有を前提として、額面をいくら上回って購入してしまったか?


日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない???

現時点でのわたくしの仮説としては、

①合理的な理由で、国債をマイナス利回りで購入することができるのは、日銀だけである。

と考えています。裏返すと、

②「マイナス利回りなら手放しても構わない」というのが、日銀預け金への手数料課金を片目で睨みつつ、引き受けたり応札したりする国債を手放すかどうか判断する市中銀行の腹のうちである

ということになります。

②の理屈は、国債売却益が市中銀行にとっての割増退職金(一時的な慰労金)であるという2015年12月29日のブログで解説しました。

①の理屈も、世界の中央銀行制度の歴史のなかでも他に例を見ない巨額(対GDP比でも対発行済国債総残高でも)に膨れ上がった日銀保有国債の時価評価は、日銀自らの購入行動によって、マイナス利回りによって洗い替えされます。マイナス「金利」からは手数料収入が生まれ、マイナス「利回り」からは保有国債の評価益が生まれます。相場操縦とは言いません。日銀は実は国内上場会社のなかでもダントツに好決算を迎えられることは確かです。

いまでは、先進諸国を見渡しても、過去と較べても、最高評価の値段が付けられている国債が、現在もっとも財政状況の悪い政府によって発行されたものであるというのは、とんでもなく皮肉な現象であることを超えて、実感に合わなくはないでしょうか???

実感に合わないこと(※)を、すっきりと説明することこそが経済学の役目です。

リカードの比較生産費説が一例。生産要素の移動が行われない二国間においては、交易対象の二財とも絶対優位の国であってにせよ同国内で比較劣位の財については生産を取りやめて(絶対劣位だが)比較優位の他国から輸入したほうがお互いにメリットがある、と。


内生的貨幣供給論

「量的緩和は円安には貢献したが貨幣供給には貢献していない」という話は、わたくしのブログでもしばしば取り上げて参りました。いまのところ、マイナス金利も同様どころか、円安も一時的であったということになります。このことを、欧州の銀行不安と世界経済の減速(原油安、中東問題、中国・北朝鮮など東アジア問題)で説明しようとするブログやニュースは吐いて捨てるほどあります。へそ曲がりのわたくしのブログでは、バズーカの形や大きさにかかわらず、これまでどおり内生的貨幣供給論で説明可能だというのが結論です。

「内生的貨幣供給論」は決して難しい考え方ではないのですが、はっきり言って、言い回しが紛らわしいです。「内生的貨幣供給論」が非現実的だと批判する伝統的かつ正統派の金融理論のなかに、その紛らわしさの原因があると考えました。

もっとも、伝統的かつ正統派の金融理論が自らのそれを「外生的」と呼んでいるはずもなく、暗黙の了解として、「貨幣供給」(Money supply)が与件として外生的に決定可能だとしているわけです。つまり、

①世の中には金利さえ低ければいくらでもおカネを借りて事業を起こしたいというひとがいるものだ。なので、
②貨幣の供給量(市中銀行の預金残高)は銀行の貸出残高によって決定される。
③ここで、市中銀行は、もともと非金融民間部門から預かった預金(本源的預金)を《元手》に、中央銀行の支払準備率(≦100%)の逆数(※)まで目一杯貸出をするものである。

(※)本源的預金を初項とし(1-支払準備率)を公比とする無限級数

上記③で、中央銀行(日本銀行)の支払準備率が外生変数だ(がそれが均衡数量としての貨幣供給を独立して一意的に決定できるというは一般的には言えない)というところから、「外生的」貨幣供給呼ばわりする理由なのでしょう。

とは言え、「支払準備率」を下げたところで、市中銀行の預金は増えない、という考え方を「内生的」貨幣供給と呼ぶのもまたピンと来ません。どこから内生しているのかというと需要側からなのでそれをなぜ供給というのか素朴な疑問が湧いて来ませんか??>

このような用語の使われ方の原因は、

「モノやサービスであれば、需要と供給が価格による調節で一致したり(ワルラス均衡)、どちらか低いほうに引きづられて一致したりして(マーシャル均衡)、均衡数量となる(それは需要数量でもあり供給数量でもある)という言い方ができる」

のに対して、

「おカネについては、何故か(※)貨幣需要(Money Demand)という言い方をせずに、流動性選好(Liquidity Preference)という言い方をして、貨幣供給(Money Supply)という言い方が、需要と均衡するまえの数量を意味することもあれば、需要と均衡したあとの結果としての数量をあらわすこともあり、ひとつの用語が二通りの意味を持つゆえの紛らわしさにある。」

というのがわたくしの推測です。

それが経済学の伝統なのだからしかたがないと意識するしないにかかわらず、高校レベルの社会科でも、紛らわしい用語を経由して、前提の怪しい乗数理論を教えられているというのは、経済損失です。

高校時代に化学で規定量という用語に触れてなんでこんな言い方するんだろうなと思った記憶があって、いまウィキペディアを調べたら、やはり今日の学習指導要領ではもう使われなくなっているようです。

確かに、内生的貨幣供給論が批判対象とする外生的貨幣供給論(正統派の金融論)では、

①借入需要は金利の上がり下がりに応じて貸出能力に一致するか、または、(常に、借入需要>貸出能力なのであるから)金利によって調整不能だとしても貸出能力に一致する。

よって、
②金利という「おカネの価格」の調整機能が働くと働かざるとにかかわらず、外生的に所与とされる貸出能力(によって一意的に決定される貨幣供給)と一致する。

だから、
③貨幣供給という用語のダブルミーニングを気にする必要はないのだ、

ということになります。経済学史をちゃんと勉強せずに想像をこれ以上ふくらませるのは良くないですけど、上記(※)について、流動性選好は取引需要(国民所得に比例?)と投機的需要(金利に反比例?)の足し算だとして、貨幣需要という言い方が経済学では用いられないのは、取引需要(=借入需要?)だけを意味するのかどうかあいまいだとの配慮があったからなのかも知れません。

などなどという愚痴を聞いてもらったうえで、もういちど、《日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない》というブログに目を通していただくと、また見えてくる景色が変わってくると思います。
日本銀行のブタ積み当座預金には意味があるのか?

2016年1月24日日曜日

今よりマシな日本社会をどう作れるか

このような良書が、ジュンク堂書店やアマゾンでは手にはいらないのは残念でなりません。

塩沢由典先生が、アベノミスクの初期段階とも言える2013年5月に書かれた本です(発行・発売=編集グループSURE、2013年7月15日初版第一刷発行)。

おそらくは、車座みたいな雰囲気のなかで、経済学を専門とはされていないものの、世の中の森羅万象について感度の高い先生の知り合いを相手に、経済学の切り口からアベノミクスを中心とする2013年初頭の経済情勢、もう少し翻っては、それまでの【長期停滞】(いわゆる失われた20年)について、口語調で語られています。先生の著書のなかではとっつきやすいものです。

しかし、、、、、、

扱われているテーマはとても重く難儀なものです。語り口が優しいからと言って、容易に理解できるわけではありません。わたくしも付箋を着けながら慎重に繰り返し読んでみました。

【塩沢由典先生と竹中平蔵先生】

驚きました。ご自身では否定されているものの、世間では市場原理主義や新自由主義の権化というレッテルを貼られている竹中平蔵先生とそれほど意見が異ならないという箇所がいっぱい出てきます。

塩沢由典先生が、伝統的な経済学に対して批判的な立場で一貫して研究活動をされてきたこと、おそらくまったく、政官界との距離感は異なることに鑑みれば、新鮮な驚きです。

ところで、竹中平蔵先生が、どんなに政官界に近いとは言え、氏が繰り返し主張する「正社員という制度そのものを廃止すべき」という雇用のあり方の見直しは、氏が一番近い自民党はもちろんのこと、労働組合を捨てきれるはずのない民主党、、、(中略)、、、共産党まで、日本の既成政党でひとつとして政策に掲げているところはありません。

せいぜい、同一労働同一賃金までであって、これ以上に踏み込んだ既得権打破を訴える政党は、ひとつもないのです。

さて、以上をプロローグとして、「今よりマシな日本社会をどう作れるか」の論点をわたくしなりに5つにまとめると、

①アベノミクスは安倍のミックスである
②1991年以降の長期停滞の要因分析
③中国という十数倍もの「賃金格差」かつまたは「労働生産性」を持つ国が日本の(自由)貿易の相手方になるかぎり、日本の中間層の賃金を下げない経済政策がありうるのか?
④高福祉高負担でも経済成長を可能としたスウェーデン・パラドックスは日本でも応用可能なのか?
⑤日本でアメリカ(のシリコンバレーやイスラエルのヘルツリア)のようなベンチャー企業群、ベンチャーキャピタリストが育てられるのか?

①は、第一期アベノミクスの最初の2本の矢「金融緩和」と「財政出動」が一貫性のある経済理論からは意味不明であるという話。まず「金融緩和」についての意味と無意味については、このブログで再三触れてきたところです。つぎに「財政出動」については開放経済かつ変動相場制では(財政出動による有効需要の増加は純輸出の減少で相殺されるので)無意味とするマンデルフレミングモデルについて触れられています。

わたくしはマンデルフレミングモデルのような中立命題っぽい議論が個人的には趣味なのですが、これが現実にいまの国際貿易や国際金融のなかで成り立つかどうかは深く議論をしなければならないでしょう。ここでは深掘りされておらず、むしろ②以下の論点こそ、この著書の真骨頂だと思っています。

②では塩沢由典さんは5つの要因を列挙しておられます。わたくしがいちばん注目したのは、日本経済いや日本社会がキャッチアップ(さえすれば成長できていた)ステージからトップランナー(にならなくては成長を続けられない)ステージに変質したという指摘です。言い換えれば「成功の罠」の問題です【p35~p37】。

なんとなく世の中全体としてバブルの崩壊(バブルを作ってしまったこと、かつまたは弾けさせてしまったこと)とその後の対処の悪さが長期停滞のダントツの原因だと思われているところがあるなかで、この指摘は目から鱗です。

【にんにくも石炭も掘れないわけではないけれど・・・・・・】

さて、いよいよ核心部分の③と④について。。。。。。

いまでも近所のスーパーに行くと、国産のにんにくが1個100円で、その隣に中国産のが10個100円で売られていたりします。

2013年に塩沢先生が同著を上梓されたころと、中国経済が崩落しはじめている現在とでは、にんにく以外の財やサービスの価格差は多かれ少なかれ縮んできていると思います。

とは言え、保護貿易や鎖国という禁じ手以外の方法で、農業やホワイトカラー中間層など、多かれ少なかれ既得権を有する労働者の賃金を守る、または増やす、なんてことができるのでしょうか?

塩沢先生はこの本の真骨頂である「サービス経済化」を提唱する【p68~】のなかで、

「日本の農業人口が60%(1920年代)から3%(2012年)に落ちたのは、農業の生産性が落ちたからではなく、むしろ非常に大きく向上したからだ。」

「製造業でも同じことが起こりつつある。。。が、日本の生産性(の向上)/賃金の高さ<<中国(や韓国)の生産性(の向上)/賃金の低さ」

「鉱(山)業の従事者の減少は、別の論理。鉱山が枯渇したから。」

サービス業以外の雇用の減少について、農業と製造業は理由が似ている(が製造業については国際競争にさらされている)。鉱業は理由が異なる。という整理です。

賃金と労働生産性の(A)時系列での変化と(B)横断面での絶対水準の国際比較が入り混じっていてやや複雑です。

【どうして賃金を上げないのか?】

塩沢由典先生は、p105で、「この20年間、日本の経済は確かに低迷しているけれど、私は労働生産性が落ちたとはけっして思っていません。むしろ上がっている。ですから、それに相応するだけ、賃金を上げるべきだし、それを上げないのは、経営者が逃げているのだと思います。」と述べます。

これは上記(A)だけからは導き出せますが、(B)との両立は難しいと思われます。

p117では「鄧小平が出てきて、改革開放ということを言い出すまでは、大々的に海外との取引をすることは少なかった。ところが突然どんどん貿易を自由化してゆく。。。。。。世界経済に占める中国という存在が大きく変わった。中国と日本では、賃金が平均で何十倍もちがっていたし、都市部の給料だって、20倍くらいちがった。いくら粗雑で仕事の仕方が悪いと言っても、文明を持った国民なんだから、それだけ賃金が違えば当然競争力は持てる」と。

ここは上記(B)から帰結する話です。

わたくしの考えは、、、、、、新自由主義と言われようと言われまいと、(A)より(B)を優先せずに、民間企業が国際競争を勝ち抜くのは不可能であるということ。ただし、ただいま多くの日系企業が中国現地生産の出口を模索するという局面にあり、実は出口がない(「工場もノウハウも全部置いてゆけ。」と命ぜられ換金できずにいる)という、標準的な資本主義国家ではありえないような理不尽に直面している経営者が多いこと。ゆえに、統計上の賃金と生産性だけから国際分業を論じるほど現実は簡単ではない(よって日本も捨てたものではない)ということを指摘しておきたいと思います。

【スウェーデン・パラドックス】
④について。塩沢由典先生は「道州制でいろいろ試してみてもよい」【p111~】で、
「ミュルダール夫妻がかいた本が基礎となって、スウェーデンの社会民主党の政策は形作られた。それが受け入れられて、スウェーデンの戦後の体制が生まれてきた。こういうのは、やはり、スウェーデンが今でも人口900万人程度の規模だから可能だったんでしょう。」

これは、わたくしの記憶が間違っていなければ、竹中平蔵先生がNHKの「日本の、これから」で年金問題を討論したときにまったく同じことを指摘されていたと思います。

人口がある程度以上大きい中央集権国家で国民負担率の高い制度を実現すると何となく動脈硬化を起こしそうなイメージはあります。しかし、塩沢由典先生が別の箇所【p92~】で述べられているように、平均的な日本人が抱いている《高福祉国家=労働者の既得権が高い制度》という思い込みを排除することこそスウェーデン・パラドックスを解き明かす鍵だと思うのです。

つまり、

「日本の場合には、企業はいったん正規雇用をすると、基本的には定年退職まで解雇しないことになっていますね。そうすると、衰退産業は、無理しても雇用を維持しなきゃいけない。。。。。。日本の終身雇用は、ある意味で社会保障の一部でした。。。。。。スウェーデンの場合、、、、、、、例えばある企業を解雇されたら二年くらいは大学に入り直すことができる。基本的には学費と生活費を出してくれる。。。。。。」

是非、七転び八起きブログの読者のみなさまには塩沢由典先生の「今よりマシな日本社会をどう作れるか」を手にとって読んでいただきたいので、これ以上の引用は避けますが、やはりわたくしはこの雇用慣行の抜本見直しを伴うセーフティネットの充実が日本の閉塞感を打破する鍵であり、1億人を超える社会でも実現不能ではないと考えています。

しかし、繰り返しになりますが、正社員制度を廃止しようという政治家はひとりも居ません。

最後の⑤のベンチャーが育たない理由も、半分は上記④の病巣で説明できると思います。ただし、それだけで、日本にグーグルやフェイスブックやアップルのような企業がどんどん産まれ育つとか、シャープや東芝がインテルみたいに生まれ変わるなどとは思っていません。正月元旦のテレビ朝日朝まで生テレビで自民党の山本一太先生が「日本にはシリコンバレーの真似は出来ない」と発言していましたが、誰も反論していませんでした。


2015年12月29日火曜日

心配御無用???1人当たりGDP OECD加盟国で20位に後退

アベノミクスに端を発する円安が最大の要因でしょうし、また、最近は使われなくなったGNP(国民総生産)と異なり、GDP(国内総生産)では海外からの配当が算入されないというところも勘案しなければなりません。

さはさりとて、「イスラエルや香港のような小国(?)に抜かされた」「韓国が23位と肉薄している」という事実に、感じ悪いと思われた方が少なくないことでしょう。

人口で割り算をしていないGDPで、日本が中国に追い越されたというニュースについて、わたくしは世間の大騒ぎを無視しました。

しかし、、、、、、

人口で割り算をしているGDPとなると、なんとなく大勢の人たちのあいだで、人間の幸せ度合いと比例し直結する指標なのではないかと思われがちなのは当然です。

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東京にも大阪にもホームレスはいっぱい居ますが、テルアビブやエルサレムには物乞いや掏摸(すり)がいっぱい居ます。それは先進国と言われるヨーロッパの諸都市もいっしょかも知れません。

テルアビブで、小銭の単位もわからず、バス停や行き先の名前の文字も読めず、ドキドキしながらバスを待っているわたくしは、小銭の半分くらいを乞食にあげてしまいました。バス停に並ぶイスラエル人のなかでわたくしのようにお金を乞食に渡すひとは誰一人いませんでした。

イスラエルは、何かと、日本ととは真逆の国だと言えます。。。。。。

米国の世界戦略に沿って、日本が極東で担っている(担っていた)役割と同様のそれを中東においてイスラエルが担っている(担っていた)、にもかかわらず、です。

イスラエルは核拡散防止条約に加盟しておらず、核保有について肯定も否定もしていません。いっぽう、原子力発電所はひとつもないのです。中東に位置しながら、石油が掘れない場所であるにもかかわらず、、、、、、宗教上も外交上も疎遠な隣国から石油を輸入してでも、小国ゆえ国そのものが吹き飛んでしまうような原発事故のリスクは絶対に避けなければならない、という、日本では考えられない思考回路によって、イスラエルの核戦略が導かれているようです。

ところで、アヴァトレード・ジャパンの親会社の事務所は、いまでは東京の都心では見つけることが難しいくらいの、築年数不明の雑居ビルのなかに2フロア間借りをしています。そんなところにIT企業のはしくれが事務所を開いていて大丈夫なのか???サーバはロンドンの金融センターにありますかkら大丈夫ですし、日立製作所のイスラエルの出先機関も同じ雑居ビルに入っているくらいです。

この背景には、テルアビブの郊外を含めた一部の不動産が高騰していて、良質の不動産が手に入りづらいことがあります。弊社親会社や日立製作所が入居しているオンボロオフィスビルの近くには、インフィニティ(日産)やレクサス(トヨタ)の新車ディーラーのショーケースがあったり、グーグル、アップル、3Mなど、米国を代表する企業の開発拠点があったりもします。それらの(帰属)家賃までは調査できていませんが、そこから地中海の海岸にまで広がる住宅地は、高級な部類であり、とは言え、東京の感覚だと、1~2億円の物件に見えるものが、その10倍くらいの値段で取引をされているようです。

テルアビブやその郊外のイスラエル版シリコンバレーの物価が全体として高いかと言えば、そうでもありません。外食は東京と同じくらい。テルアビブの旧市街からシリコンバレーと呼ばれるヘルツリアまでバスで1時間くらいかかりますが、日本円換算で300円くらいです。

その乗り合いバスも、金曜日(の日没から安息日がはじまるため)本数が極端に減ります。しかし金曜日だれも仕事をしていないわけではありません。ユダヤ教徒であっても、金曜日に急ぎの仕事を抱えていれば、仕事を優先します(一部の過激派などを除く)。それでも金曜日はシリコンバレーだったはずの街の雰囲気がガラッと変わり、いつ来るかわからないバスを、大勢の黒人が待っているのです。彼らの多くは、建築現場で働いています。さきほど例示したグーグルやアップルや3Mのオフィスはみんな築浅。街がいま出来つつあるという状況なのです。

地中海に夕日が沈むなかバスでテルアビブの旧市街に戻る途中、横断歩道でフラフープに興ずる少女を見かけました。いまごろイスラエルではフラフープが流行っているのか?と聞くと、信号待ちの運転手に物乞いをするのだ。以前は、もっと普通に、花売りの少年少女がいっぱいいた。イスラエル経済が上向きになって、そういう子どもたちがだいぶ減ったのだ、という回答を得ました。


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一人あたりGDPは、平均値であって、中間値でも最頻値でもありません。中間値や最頻値で見ると、豊かさの順位は大きく変わってくるでしょう。

日本を統計上追い越したイスラエルは貧富の差がより激しいことは明らか。それが一方的に良くないという意味ではありません。

わたくしは長年、日本に移民や難民(受け入り)が少ない背景として、言語の壁がおおいにあると思っていました。金融やITサービスの世界拠点になるためには、アイルランドやカナダ、オーストラリアやニュージーランドに比べると不利だ、ということになりますが、かと言ってニュージーランドが金融ITサービスのメッカになっているという話も聞きません。

イスラエルは英語が日本よりは通じますが、圧倒的にヘブライ語であって、世界でも1000万人未満の人しか喋っていない、英語、スペイン語、中国語はおろか、日本語に較べても汎用性の低い言語の壁があるわけです。この言語の壁を乗り越えてでも、雇用機会に巡り会いたいという人が各国から集まってきています。農業、化学、航空、IT(暗号化技術を含む)などの最先端分野では、ヘブライ語の壁や宗教の壁をそれほど気にせずに仕事や研究をすることができるということなのでしょう。金融とITを足して2で割ったような、アヴァトレード・グループのイスラエル拠点も(アイルランド拠点も)、意外なほど、宗教、出身国、肌の色、母国語は様々です。

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さて、アベノミクスは、円安を招いただけで、インフレをもたらすという「宿題」を果たせなかった、という論評が中心ではあります。

月刊ファクタ新春1月号 日銀「マイナス金利」確率3割

本筋から、またもや離れるようではありますが、この記事のタイトルにある「マイナス金利」に対して、現在行われているのは「ゼロ金利」ではなく「プラス金利」だったという事実をご存知でしょうか?

日銀が民間銀行から国債を買い取ります。その「純」増額たるや、アベノミクス開始以来3年間で約200兆円。

これが大きい数字なのかどうかピンとこないくらい大きい数字ですが、、、、、、

日銀準備預金(<日銀当座預金<マネタリーベース)の残高は、

2012年11月=35兆円
2015年11月=224兆円

つまり、日銀による民間銀行からの国債買い取り(民間銀行による日銀預け金の増加)は、残高としても増え方としても異様な大きさであったことがわかります。

そしてこの224兆円に対して、日銀は、年率0.1%の付利をしています。金額で言うと二千二百四十億円。凄まじい金額ですが、民間銀行の普通預金金利(現在は0.01%から0.05%。最頻値(!?)は0.02%)と比べれば大した差ではない、と銀行経営者なら思うところです。

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アベノミクスが民間銀行に与えたもの。それは国債のイールドカーブ(長短金利差)と引き換えに年利回り0.1%の預金。民間銀行はイールドカーブリスク(≒国債の価格変動リスク)を日銀に引き取ってもらったとは言え、短気調達長期運用(※)による利ざやの大半を失った。

さきほどマネタリーベースの最重要要素である日銀準備預金の残高を比較した二時点で、10年国債の利回りをざっくりくらべると、

2012年11月=0.8%前後
2015年11月=0.3%前後

です。そうすると、わたくしの上記の結論には重大な見落としがあることに気が付きます。日銀が用意した引換券には、イールドカーブリスクに加えて、国債売却益という、割増退職金のような一時金も含まれていたということです。

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これまでに利用したデータの出典は、すべて財務省と日本銀行です。ついでにもうちょっと数字を見てみましょう。わたくしが注目したいのは国債費で、そのうち過去に発行した国債の償還に充てられる費用を除いたもの(利払い費など)です。これが2015年度は10兆円を上回ります。

国債残高が天文学的数字に至るなかで、いまのところは、国債の保有主体としては、日銀がぐんぐんと存在感を増しているだけで、海外主体は微増に留まっています(医療と年金の個人負担比率を改悪せずに高齢化を放置することによって社会保障費を中心とした財政赤字が今後も増えると、「日本国債を購入しているのは日本人だけだから心配ない。日本の国家財政破綻論は破綻している」という議論も成り立たなくなりますが、いまのところはだいじょうぶです)。

そうすると、この国債利払い費10兆円というは、ほぼ純粋に日本国内の経済主体間の所得分配をいびつにしかねない厄介者だということになりそうです。

アベノミクスのビフォアアフターを問わず、銀行セクターが、大手と中小の差こそあれ、

①金融仲介機能(借り手と貸し手との出合い系のような役割)の報酬
に加えて、
②日本国債にまつわる若干インサイダー的で若干既得権益的な利潤
が上乗せされることで、経営を成り立たせてきた。

それでも、先述の準備預金0.1%=二千二百四十億円という補助金は、国債利払い費10兆円から比べると微々たるもの。

歳出の1割程度をもしめる国債利払い費は誰が受け取っているか?日銀と民間銀行と生損保等がざっくり3割ずつというのが答えです。アベノミクスのビフォアアフターで、生損保等はほぼ不変。日銀が1割から3割にシェアを増やし、民間銀行が5割から3割にシェアを減らしました。もうおわかりのように、民間銀行はシェアを減らすことで、毎年の国債利子受取収入を減らしてしまったけれど、減らす過程で、莫大な売却益を計上してきたという図式です。

わたくしたちは、なんとなく、高校や大学などで経済学と称して、日銀が民間(銀行)から国債を買い取る行為が金融緩和であってインフレをもたらすが如き屁理屈に触れてきたり、またそれを妙にわかりやすい詭弁を用いて地上波ワイドショウなどで解説する似非エコノミストに触れてきたりします。しかし、こんなものは金融緩和でもインフレ政策でもなんでもなく、補助金10兆円の受取主体が民間銀行から日銀に遷移したが、民間銀行は一時金によって慰労された、だけのことだったのです。

我が国の税負担が公平だとしても、この10兆円ファンドに参加できているかいないかでは大きな差があります。借金してでも国債を買おう、と結論づけても、借金の利払のほうが大きくては話になりません。国債利払い費10兆円の美味しさを味わうためには、どうしても中央銀行=民間銀行という特権社会の一員でないと難しい面があります。

わたくしはグローバル資本主義(!?)のなかで国家戦略を実現するために、どこの国でも銀行セクターにある程度の特権的地位を与えることが必要(悪)だと思ってもいます。軍事力が必要(悪)なのといっしょです。しかし、以上に描写した銀行セクターの不都合な事実は、英米独仏瑞などの代表的国際的金融機関が担っている国家戦略のようなものには結びつかない、単に歪なヘリコプターマネーのように見えて仕方がないのです。

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一人あたりGDPの順位だけにとらわれず、貧富の差や、本日は触れなかった貧富の逆転の可能性(モビリティ)、特権社会の存在不存在など、さまざまな切り口を加味して論ずるべきなのでしょう。

日本はかなり変化の兆しが見えてきたとは言え、まだまだ多くの人達が大企業や公務員など特権社会に所属しないと割りを食うという思いでいると思います。それもまた事実でしょう。

いっぽう、イスラエル型の社会では、先に触れた研究開発やビジネスの最先端は、一部米系大企業の出先を例外として、そのほとんどがベンチャー企業によって担われていることは注目すべきです。アングロ・アメリカン型社会は、日本型とイスラエル型の中間くらいでしょうか。

2015年7月6日月曜日

ギリシャ国民投票、財政緊縮策にNO。ユーロ下落

ナチスドイツが大戦中に強奪したギリシャ中央銀行の金塊をまだ返してもらっていない

かれこれ6年にも及ぶギリシャ債務危機を、いまどきここまでこじらせたのは、今年1月の総選挙で、首相となるアレクシス・チプラス率いる急進左派連合の緊縮財政撤回路線を国民が選んだからである。


欧州でも最悪レベルである50%の若年層失業率、年金を下ろせず休業中の銀行のATMの前で右往左往する老人たち、仕入れもできず客も来ない商店主。疲弊するギリシャの市井人は、経済危機を悪化させた政権交代を後悔している。


先週末の国民投票は、ギリシャの政治経済という時計の針を、政権交代前まで戻るための残されたチャンス。


ドイツ筆頭に債権者たちが突きつけてきた救済策を脅迫状だとして、反対投票をテレビ演説で呼びかけたアレクシス・チプラスは、気が狂っている。


債権者たちが最後通牒としている救済策の反対することは、ユーロ通貨圏からの脱退を意味する。「いや、そうではない。ユーロに残れる。国民投票でNOが多数になることで、債権者たちをもういちど交渉のテーブルにつかせることができる、いまつきつけられているギリシャにとって屈辱的な条件を改善することができるのだ」というアレクシス・チプラス首相の主張は、絵空事に過ぎない。


・・・・・・と、悪夢を見て、目覚めたギリシャ有権者の多くは、賢明かつ冷静にして、YESを投ずるだろう、、、との予想が、みごとに外れてしまいました。


先週月曜日(6月29日)は、ユーロ円が1%以上のギャップダウン(窓あき)で再開。国民投票を強行するとして揺るがないギリシャ現政権に対して、それなら債務軽減交渉のテーブルにつかないというトロイカ(含むIMF)たちとの平行線のまま、翌6月30日の債務期限を迎えることになるという最悪の事態に、外国為替市場がひらいていない週末、進展してしまったからです。


今回の国民投票(レファレンダム)も、またまた、週末の出来事。ユーロ円は、またしてもギャップダウン(窓あき)でオープン。わたくしだけでなく、多くの市場参加者が、6割を超えるNo(反対)が集まるとは予想していなかった。ユーロ下落が織り込まれていなかったということになります。


わたくしを含めた予想を外した市場参加者から見ると、ギリシャの有権者(すでに国を見捨てて海外に出稼ぎリ行っている若者や、お金持ちを除かなければならないので、あえて国民と書かずに、有権者としています)は、愚か者で怠け者で浮かれ者だと唾棄すべき存在なのでしょうか???


わたくしは、5年半ほどまえ、まだ初期段階だったギリシャ債務危機に際して、
驚嘆に値するギリシャの言い訳
として、英フィナンシャルタイムズの報道《ギリシャの副首相が「ナチスドイツが大戦中に強奪したギリシャ中央銀行の金塊をまだ返してもらっていない」との発言》を引用しました。

かたや、いま英国放送協会のホームページにはこのようなチャートが出ています。



ドイツが公的にまたは私的にかかえているギリシャ向け(不良)債権が突出しているのです。

アベノミクスでデフレ問題を解決できると信じていた日本国民には笑えないギリシャのデトロイト化

年金や公務員給与などのレガシーコストにいっこうにメスがはいらず、その一方で、ギリシャ有権者は債権者たちにNOを突きつけてもユーロ圏に留まることができると楽観し、さらには債権者にとってもギリシャのユーロ圏離脱は事実上の債権放棄になる(※)として、引き金を引けないことが、ギリシャ債務問題が6年ものあいだひきづられてきた理由です。


国や地方公共団体の債務にとって、徴税権だけが担保です。それでは、夕張市やデトロイト市はなぜ債務問題を解決できなかったのか?担税力のある市民は、緊縮財政を強いられる地域に我慢して住み続ける必要を感じないからです。


IMFやEUが、ギリシャ国民に、出稼ぎや移民を禁じて、ギリシャの徴税権が及ぶ会社や工場などで強制労働をさせることなど、できないでしょう。またそのような環境で、ギリシャが通貨発行権(シニョリッジ)を復活させてドラクマが流通したとしても、自国債務がユーロ建てで発行されている以上、ユーロとの交換比率、つまり為替相場はいちじるしく低い評価にとどまらざるを得ません。


これは第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレと同じような混乱をまねきます。けっきょく、国民も、ババ抜きのババのような新ドラクマを支払決済手段として容認しなくなり、(ジンバブエの自国通貨と米ドルの関係のように)、やはり流通するのはユーロだけだったということになりかねません。




しかし、それでも本来手を付けるべきは、レガシーコストそのものであり、金融政策や消費税を弄るのは本筋ではなくて、有権者対策にほかなりません。これまた為政者が確信犯でやっているところです。


有史以来はじめて直接民主制を導入し、ゆえにその制度上の欠陥をあらわにしたギリシャで、いまふたたび衆愚政治の極みが演じられています。ユーロ紙幣の在庫も払底しているし、ドラクマ紙幣の印刷機も錆びついている、ところが、金がなくても自生するオリーブの実をかじり、シュノーケルで魚を啄んでいれば、そのうちなんとかなるだろうと考えて、国民投票結果に浮かれているギリシャ国民。債権者が対抗できる手段はあいもかわらず限られている。「債務不履行のトリガーを弾いてもむしろ損失は膨らむ」と自覚する債権者側は、「ユーロを供給しない」という真綿で首を締めつづける方法を続けて、ギリシャを姨捨山にするしかないと考えていくのではないでしょうか。