2016年2月19日金曜日

マイナス金利とマイナンバー制度

「安心してください。はいってますよ。」

来週の月曜日は何の日だかご存じですか?

年に二回、普通預金の利息が受け取れる日です(※)。

黒田日銀のマイナス金利導入を受けて、メガバンクのなかでは、まず三井住友銀行が普通預金金利を0.020%から0.001%へ引き下げると発表しました。

受け取れる利息が、いっきょに20分の1になるわけですが、よほどのお金持ちでかつよほどものぐさなひとでなければ、もはや気にするひとは居ないでしょう。

普通預金金利0.001%というのは、2月と8月に利息を1万円もらうためには、預金平残で20億円必要だということです。

マイナス金利ということで、個人の預金の金利もゼロどころかマイナスになるのではと心配したひとも、去る1月29日の日銀金融政策決定会合の直後のヘッドラインニュースだけを見た瞬間は少なくなかったと思います。

そのような世相に反応して、メガバンク中心に、預金金利を下げることはあってもマイナスにすることはない、との告知もされました。

とりあえず、来週の月曜日には、主な銀行の普通預金口座には、1万円以上の平残があるお客さまに限って、1円以上のお利息が、はいっていることになります(※※)。

※三菱東京UFJ銀行と三井住友銀行(2月と8月の第三土曜日または日曜日の翌営業日)。みずほ銀行は不明(当行所定の???)。ネット専業銀行のなかには、独自のルールあり(例:ジャパンネット銀行は毎月第一営業日。もはや気にするひとは居ないでしょうけど、年間で利息を受け取れる回数が多いほど孫利息がつきやすいので預金者有利です)。

※※復興特別所得税を含む源泉所得税と利下げ分を無視した概算。なおメガバンクの普通預金約款では平残1000円単位で付利されると規定されているが、0.200%未満の金利では平残千円では利息は1円未満になってしまう。

鬱陶しいだけで片付けられてはいけないマイナンバー制度

ところで、マイナス金利は、ほんとうにリテール市場には適用されないのでしょうか?

マイナス金利が「B2B」(中央銀行と市中銀行の間、市中銀行と市中銀行の間)では適用されてしまう理由は、B2Bの参加者はタンス預金ができないほど預金残高が大きく、現金輸送車を毎度使えないほど決済金額の規模が大きいことです。

だとすると、B2Cには適用されない。悪くてもゼロ金利だ。安心してください。で済ませられるでしょうか?

たぶん、安心して良いと思われますが、次のような社会設計を想定できないでしょうか?

①現金(紙幣と硬貨)を廃止する[期限を定めて銀行や電子マネー発行会社(※※※)に(再)預け入れしないと無効になる(通用しなくなる)]
②フィンテック革命により、どんな小さな商店でも飲食店でも、クレジットカード、デビットカード、または電子マネーの決済を受け入れる無償のリーダーライターが使えるようになる。
③マイナンバー制度の徹底により、利息は当然として、給与、家賃、地代、配当などの所得はすべてマイナンバー紐付け口座に振り込まれる。

個人法人問わず、①と③だけで、収入と支出を網羅してその結果、税務関係年度末の残高と合致するということが可能となりますが、②をマイナンバーカードと紐付けることで正確性が担保されるでしょう。

わたくしが国民総背番号制度推進派だったとは意外だと思われたでしょうか?しかし決してこれは税務署の手先だということにはなりません。ここまでやると、確定申告がほとんど必要なくなり、税務署の作業も相当程度リストラされることが想像できると思います。国税、地方税だの、申告所得と源泉所得だの、税と年金保険料など、二重三重行政が横行しているがゆえの馬鹿馬鹿しい行政コストに対して一気にメスがはいるというものです。

しかし、きょうの本題はそこではなく、このような制度設計が万が一実現すると、B2Bだけでなく、B2Cでもマイナス金利が実行可能になりませんか???という問題提起でした。

※※※銀行と同様、マイナンバーとの紐付けが義務化されていると仮定します。日本円の金融政策に絡んでの考察を続けているので、当面ここでは、円建て電子マネーだけとして、ビットコインなどの暗号通貨は検討の対象外とします。

「倹約は美徳、浪費は悪徳」をケインズは否定したけれど・・・・・・

閑話休題、日銀の政策金利は別としても、民間の市場の金利というのはゼロ以上であってたいていはプラスである。つまりおカネというのは借りたひとは貸してくれたひとに報酬をはらわなければならないというのは、常識です。上記のようなマイナンバー制度+タンス預金禁止法で、個人(や法人)のおカネの収支と残高がガラス張りになってしまうまでは、「マイナス金利になったら即タンス預金だから」、で納得できました。《技術的に非負制約があろうがなかろうが、金利というものは非負である》という常識をどのように説明したらよいでしょうか???

わたくしが30年前に読んだ、Fischer=Dornbusch共著Economicsは、新古典派経済学の王道らしく、供給と需要の両面からこのことを説明していました。

供給側とは貯蓄する側。本来ひとというものはいま使えるおカネをすべて使ってしまいたくなるものだが、辛いけれども我慢して使いきらないように努める、これすなわち貯蓄なので、その辛さ、我慢に対するご褒美である、と。

需要側とは(消費または)投資する側。(明日まで我慢するという苦痛に比べれば、可処分所得を超えた消費を、今日、するために払わなければならないペナルティの苦痛のほうが少ない。または)将来利益を出せる投資機会があるので、利息(<将来利益の見込み額)を支払ってでも先立つモノを用意したい、と。

節約に対するご褒美=(浪費に対する罰金または)外部負債の調達費用≠<(消費機会の機会費用=我慢の苦痛または)投資機会の機会費用(投資から得られる見込み収益)

という説明には説得力があります。しかし、金利は資本への対価なのだから、不在地主に支払う地代と同様、不労所得であって、人倫にもとる、という考え方は、古来、多くの国家(※)や宗教(※※)を支配してきましたし、カール・マルクスはこれを労働者から搾取した剰余価値だと糾弾したわけです。

賃金の鉄則という考え方があります。労働者階級は失業者(のプール)がある限り、競争を通じて、生活を続けていくためにぎりぎりの報酬条件での雇用に甘んじざるを得ないというものです。カール・マルクスが敵対視していた社会主義者フェルディナンド・ラサールによって打ち立てられた説とも言われますが、同じくカール・マルクスが批判したまたは批判的に継承したデヴィッド・リカードやトマス・ロバート・マルサスもこの鉄則に寄り添って自説を展開していることはおおいに強調されるべきです。

「不労所得は法や道徳に反する」「労働者階級はこれ以上節約できない(一銭足りとも貯蓄できない)環境に置かれている」というのは主義主張としてはおおいにありえますが、これと、労働価値説(商品の価値は投下された労働(力)そのものである)という考え方と同じものでしょうか?

※キリスト教が公認されて以降のローマ帝国では、ユダヤ人がキリスト教徒を奴隷として使用できなくなり、また利息について契約で定めることもローマ法大全により強制的に非合法とされたようです。

※※フェニキア人などセム族は全般に利息行為を認めていた中で、ユダヤ人だけ例外で啓典の民(その後キリスト教徒が排除される時期あり)同士では有利子の金銭貸借は認めていなかった。実はイスラム教の利息禁止の原典はここにあるようです。

湯浅赴夫著「ユダヤ民族経済史」など

また極端なたとえ話です。無人島にふたりの男が流れ着いたとします。男女でも良いのですけど、ややこしいので男ふたりとします(差別目的ではなく性的少数派問題は捨象します)。サバイバルのために衣食住を整えていかなくてはなりません。さらに極端な仮定を。このふたりは喧嘩はしないが協力もしない。めいめいが狩猟したり狩獵したり家をこさえたりします。どんな仕事でも能率や成果には差が出てくるものです。一方の男がもう一方の男よりも仕事が早かった、かつまたは、より長い時間、かつまたは一所懸命まじめに仕事をした。結果、家を先に建てることができた、かつまたは、自分の消費量(可食量)という目標を超えて鳥獣魚介をつかまえることができた。。。。。。

仕事のできる男は、飢えに苦しみ、雨露をしのげないもう一人の男に対して、余った食料をさしのべたり、軒先くらいは貸して、野天よりは快適に寝かせてあげようとするでしょう。

家族、私有財産および国家の起源

このふたりは喧嘩はしないが協力もしないという前提では、仕事のできる男は、食料のお返しプラス御礼(消費者ローンの元利払い)と、軒先貸しの御礼(家賃または住宅ローンの元利払い)を条件に、生死の境にいる他人を助けることになります。

わかりやすさのために、男ふたりと少人数を前提したので、この手の人助けは無償で行われるものではないか(原始共産制のような世界)と突っ込まれるところです。それでも、人数が何人に増えてもこれから申し上げる結論は変わりません。無人島に辿り着いた第一世代の男たちの間で生じる利息や家賃は、平均(?)よりも仕事を早く済ませたひとが平均(?)よりも仕事を早く住ませられなかったひとからもらうということで発生していて、その源泉は労働にほかなりません。

無人島なので、土地に関しては無主物先占であり、不在地主にとっての不労所得としての地代はありえません。また第二世代への相続贈与もありませんので、裕福な資本家の子供に産まれたがゆえの不労所得もありえません。若干極端な仮定を置いてはみたものの、既得権によって発生する地代(リカードの差額地代を含む(?))は発生せず、労働のみが価値を持ち、それでも金利や家賃は発生するという社会モデルがあることを示しています。

まとめると、

「金利がプラスであってはならない」という旧約聖書(モーゼ五書)やカール・マルクスによる非難と、労働価値説の枠組みは、別々である。労働価値説の枠組みにおいても、金利や家賃など一見不労所得に看做されるパラメータがプラスになりうることは、互いに矛盾しない。

ということになりませんか?

さらにわたくしとしては、労働価値説と100年以上対立してきた限界効用理論とが無矛盾であることまで言いたいのですが、いわゆる限界革命以前にもその疑問の萌芽があり、デヴィッド・リカードもカール・マルクスも自問自答していた形跡があるこの難問を、そう簡単に解決できるとは思っていません。

マイナス金利とマイナンバー制度と経済学の理論対立の三題噺になりました。マイナス金利がB2Cまで押し寄せる社会モデルによって、ついに人類は、旧約聖書のような世界、原始共産制というユートピアを手に入れることができるのでしょうか?

2016年2月12日金曜日

祝30週年 ビッグマック指数と円高とロシアルーブル安

それにくらべて、七転び八起きブログは、たったの8周年にすぎません。

たまたまですが、ブログを始めた2008年仕事で大きな転機を迎えることになる2012年、そして飲食業から撤退し什器備品を二束三文で放出することになる2016年、この3回だけ、わたくしはビックマック指数を取り上げています。

たまたま夏のオリンピックの年にあたるわけですが、ブラジル経済と為替水準について触れてみようというわけでもありません。

注目する国ははたしてどこでしょうか???

たまたまにしても出来過ぎです。リーマンショック前夜、アベノミクス前夜、そして中国ショック(前夜?)に、外国為替証拠金取引(FX取引)の業界ではほとんど触れられることのない、購買力平価への思いが覚醒してしまうのです。習慣性、周期性、そしてへそ曲がりな性格が原因です。

2008年は、リーマンショックのような量的質的な規模で金融バブル(オーバーシュート)が是正されると予想できたわけでもありませんでした。加えて、金融バブルの破裂、すなわちデ・レバレッジの局面では、例外なく為替相場は購買力平価に収斂する、という予想も外れました。

ユーロ高やポンド高が修正されるという予想は当たりました。が、南アフリカランドは購買力平価に比べて割安すぎるので是正される、もっと高くなる、という予想は大いに外れました。この反省のために必要な《国際金融》についての考察はあえて封印し、《国際貿易》だけを切り口にしてみたいと思います。輸入代金を手形では支払えない(輸出国から直接間接投資を得られない、かつまたは、貿易当事国はいずれの国も外貨準備高がプラスマイナスゼロである)という前提です。

このように、《国際貿易》は自由だが《国際金融》はまったく行われないという前提がこんにちのグローバル経済のなかで非現実的であることは言うまでもありません。

しかし、あえて非現実的な前提から考察することで、常識では見えてこない面白い真実が垣間見えたりするのがまた国際経済学の醍醐味でもあります。

30週年を迎えるビックマック指数は、以下の批判に合わせて、2011年7月分から、「一人当たりGDPで修正した購買力平価」を併記するようになっていました。

「豊かになりつつある中国では、実際の為替相場が購買力平価に収斂していっている」ものの、多くの「貧しい国では、賃金が安いのだから、そのような国の通貨は購買力平価に較べて弱くてあたりまえ」という批判。それを受けて、一人あたりGDP(横軸)とビックマックの米ドル建て価格(縦軸)の、なかなか見事な相関を示しています。

一人あたりGDPを扱った2015年末のブログの通り、気になってしかたがない方も少なくないと思われるので、はたして、日本はいまどれくらいの位置(地位)にいるのか確認されたい場合には、英エコノミストの元の記事でお確かめください。

わたくしは、日本の位置(地位)と同じく、ロシア(ルーブル)のことも気になって、ロシアの位置にマウスオーバーして記事のスクリーンショットをとりました。なので、横長の長方形で、ロシアの一人あたりGDPが12,718米ドル、ロシアでのビックマックの値段が1.53米ドルと表示されるのです。

これは平均的なロシア人は、税金などを無視すると、1年間に、8000個を超えるビックマックを食することができるという意味です。平均的な日本人だと1万2000個近く。一人あたりGDPを尺度とすると最も豊かなノルウェー人は、なんと1万9000個近く・・・・

じつはわたくしがロシアを取り上げようとしたのは、ロシアが最も図示された直線(回帰直線)から下振れている、つまり誤差として見逃せないと考えたからです。

ただし、「一人あたりGDPが低すぎるわけでもない割に、ビックマックの値段が安すぎる」ロシアで、年間可食数量が意外に少ないのは、この回帰直線のY切片が大きくプラスであることが理由です。

わたくしの問題意識をくどくどと説明するために、英エコノミスト誌が用意してくれているグラフィックを活用させてもらいましょう。
この世界地図は、一人あたりGDPを考慮しないビックマック指数です。ロシア以外にも濃い赤で塗られた国々(外国旅行者にとってビックマックが安く買える国)が、南米の一部やアジアの一部に点在しています。








いっぽう次の世界地図は一人あたりGDPを考慮したもの。ロシアルーブルが、購買力平価説の観点で、大きく割安に放置されたままの通貨であり、その他の「貧しい」国々は、貧しさゆえに阻却され、色が濃い赤(上の世界地図)から薄い赤(下の世界地図)に変色(昇格)した。


ところで、わたくしが今回申し上げたいことは、購買力平価説の観点から、

ロシアルーブルに限らず割安すぎるから、長い目で見れば修正されて、上昇が期待できる通貨はいろいろあるけれど、ロシアルーブルだけは「貧しさゆえに割安に放置され続けるだろう」という言い訳が成り立たない数少ない割安通貨である

ということではありません

なぜ、一人あたりGDPが低い国、つまりおそらく賃金が低い国の通貨は、購買力平価に収斂されることなく割安に放置されなければならないのか???という議論です。

自由貿易のメリット(がある場合が存在すること)を説明するヘクシャー=オリーン=モデルでは、資本や労働などの生産要素は交易されないが(二)国間で等しい、生産関数は(二)国間で同一、であると仮定します。この仮定がふたつとも極めて非現実的だとしばしば批判されます。

現実を説明したいのか?理想を説明したいのか?これで経済モデルの評価はおおいに変わってきます。企業家や経営者が真摯に株主(しばしば自分)の利益を極大化したいと思うのなら、、、、、、資本や工場の移転はきょうのブログでは扱わないとしたものの、、、、、、貧しくとも真面目に良く働く発展途上国の労働者に技術を教えて、少ないコストで同量同質の生産販売を実現しようとするでしょう。使えない身内よりは使える他人を、こそがグローバル資本主義のモットーであるはずです。

このように賃金の裁定は、グローバル資本主義の強欲だと貶むべきではなく、フェアトレードだと尊ぶべきところです。現実には、発展途上国なりの事情、

つまり、
>戦争などによる混乱、
>インフラの欠如(最終財にかぎらず原材料や中間財を運搬するために欠かせない)
>教育の欠如
などが、理想を遠ざけます。とは言え、教育については、グローバルな企業家や経営者なら、可能な限り、まずは陳腐化したりジェネリックになった技術からでも移転しようとするでしょう。能力や技術の陳腐化を軽視して自己啓発を怠っていた先進国の中間層が、気がつけば雇用機会を失っているというのは、もはや理想ではなく現実でしょう。

ヘクシャー=オリーン=モデルは、生産要素そのものは交易されないのに「一物一価」であると仮定します。生産要素そのものが交易されてしまうと(例:工場進出、外国企業への投資、移民や出稼ぎなど)、貿易のメリット(※)を必然的または一意的に説明できなくなってしまうという事情があり、それはヒト・モノ・カネすべてが自由に動ける真のグローバル経済とは異なる前提となります。しかし、モノに比べると、ヒトやカネはそう簡単に国境を跨げるものではない(※※)というのも実感と合致します。

※労働力が不足がちな国が、労働集約的な最終財を、資本が不足がちな国から、輸入することのメリット

※※フェルドスタイン=ホリオカ・パラドックス[1980]。ただし、われらがFX取引(外国為替証拠金取引)に代表されるデリバティブ取引が活発になってきているので、資本移転に立ちはだかっている国境は以前に比べると乗り越えやすくなっているという指摘もある(金融市場のグローバル化:現状と将来展望白川方明・翁 邦雄・白塚重典日本銀行金融研究所[1997]

一人あたりGDPで調整されたビッグマック指数から、ヘクシャー=オリーン=モデルが、やっぱり非現実的だと短絡的に烙印を押すのはあまりに惜しい考察です。同時に、購買力平価が(長期的にさえ)成り立たないと諦めるのも同様です。この2つの非現実(=理想)が密接に絡んでいることこそ注目に値します。すなわち、

最終財(例:ビックマック)の一物一価が成り立つ(成り立たない)=生産要素(例:貿易当事国の労働者の賃金)が同一である(同一でない)=購買力平価が成り立つ(成り立たない)

これがきょうの仮説です。これが正しいとすると、さて、ロシアルーブルはいかに評価されるべきでしょうか?


そんなこと言ったって、原油価格の見通しがすべて、ですって?ごもっともごもっとも。




2016年2月10日水曜日

マイナス金利でも円高?欧州の銀行不安と世界経済の減速だけで説明できるのか??

マイナス「金利」とマイナス「利回り」

黒田日銀総裁がマイナス金利を発表したのが1/29(金)。ここでのマイナス金利は市中銀行の日銀預け金の一部に手数料を課すという話。日銀預け金の「金利」は、言わば、1日物金利です。一週間と少し経過し、10年物日本国債の「利回り」までマイナスになってしまいました。

1日物金利をマイナスにすることは銀行間の資金過不足の決済に使われる中央銀行預け金に限れば技術的に難しくなく、ユーロ圏やスイスなどで前例があることは、最近良く知られています。

《マイナス金利は嫌なので、銀行間の資金化不足を、現金輸送車で!》、というわけには参りません。現実的物理的に困難、というか、そのほうがコストが掛かります。

どうでも良い話ですが、わたくしは22歳から23歳のころ、しょっちゅう現金輸送車に載せて、もとい、乗せてもらっていました。

いっぽう、10年物の国債の利回りがマイナスになるというのは、国債という有価証券を持っている人が、毎年(※)受け取る利息の(ざっくり)合計金額よりも、償還損(※※)のほうが大きくなったという現象です。

(※)実際には半年ごとに・・・・・・

(※※)満期保有を前提として、額面をいくら上回って購入してしまったか?


日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない???

現時点でのわたくしの仮説としては、

①合理的な理由で、国債をマイナス利回りで購入することができるのは、日銀だけである。

と考えています。裏返すと、

②「マイナス利回りなら手放しても構わない」というのが、日銀預け金への手数料課金を片目で睨みつつ、引き受けたり応札したりする国債を手放すかどうか判断する市中銀行の腹のうちである

ということになります。

②の理屈は、国債売却益が市中銀行にとっての割増退職金(一時的な慰労金)であるという2015年12月29日のブログで解説しました。

①の理屈も、世界の中央銀行制度の歴史のなかでも他に例を見ない巨額(対GDP比でも対発行済国債総残高でも)に膨れ上がった日銀保有国債の時価評価は、日銀自らの購入行動によって、マイナス利回りによって洗い替えされます。マイナス「金利」からは手数料収入が生まれ、マイナス「利回り」からは保有国債の評価益が生まれます。相場操縦とは言いません。日銀は実は国内上場会社のなかでもダントツに好決算を迎えられることは確かです。

いまでは、先進諸国を見渡しても、過去と較べても、最高評価の値段が付けられている国債が、現在もっとも財政状況の悪い政府によって発行されたものであるというのは、とんでもなく皮肉な現象であることを超えて、実感に合わなくはないでしょうか???

実感に合わないこと(※)を、すっきりと説明することこそが経済学の役目です。

リカードの比較生産費説が一例。生産要素の移動が行われない二国間においては、交易対象の二財とも絶対優位の国であってにせよ同国内で比較劣位の財については生産を取りやめて(絶対劣位だが)比較優位の他国から輸入したほうがお互いにメリットがある、と。


内生的貨幣供給論

「量的緩和は円安には貢献したが貨幣供給には貢献していない」という話は、わたくしのブログでもしばしば取り上げて参りました。いまのところ、マイナス金利も同様どころか、円安も一時的であったということになります。このことを、欧州の銀行不安と世界経済の減速(原油安、中東問題、中国・北朝鮮など東アジア問題)で説明しようとするブログやニュースは吐いて捨てるほどあります。へそ曲がりのわたくしのブログでは、バズーカの形や大きさにかかわらず、これまでどおり内生的貨幣供給論で説明可能だというのが結論です。

「内生的貨幣供給論」は決して難しい考え方ではないのですが、はっきり言って、言い回しが紛らわしいです。「内生的貨幣供給論」が非現実的だと批判する伝統的かつ正統派の金融理論のなかに、その紛らわしさの原因があると考えました。

もっとも、伝統的かつ正統派の金融理論が自らのそれを「外生的」と呼んでいるはずもなく、暗黙の了解として、「貨幣供給」(Money supply)が与件として外生的に決定可能だとしているわけです。つまり、

①世の中には金利さえ低ければいくらでもおカネを借りて事業を起こしたいというひとがいるものだ。なので、
②貨幣の供給量(市中銀行の預金残高)は銀行の貸出残高によって決定される。
③ここで、市中銀行は、もともと非金融民間部門から預かった預金(本源的預金)を《元手》に、中央銀行の支払準備率(≦100%)の逆数(※)まで目一杯貸出をするものである。

(※)本源的預金を初項とし(1-支払準備率)を公比とする無限級数

上記③で、中央銀行(日本銀行)の支払準備率が外生変数だ(がそれが均衡数量としての貨幣供給を独立して一意的に決定できるというは一般的には言えない)というところから、「外生的」貨幣供給呼ばわりする理由なのでしょう。

とは言え、「支払準備率」を下げたところで、市中銀行の預金は増えない、という考え方を「内生的」貨幣供給と呼ぶのもまたピンと来ません。どこから内生しているのかというと需要側からなのでそれをなぜ供給というのか素朴な疑問が湧いて来ませんか??>

このような用語の使われ方の原因は、

「モノやサービスであれば、需要と供給が価格による調節で一致したり(ワルラス均衡)、どちらか低いほうに引きづられて一致したりして(マーシャル均衡)、均衡数量となる(それは需要数量でもあり供給数量でもある)という言い方ができる」

のに対して、

「おカネについては、何故か(※)貨幣需要(Money Demand)という言い方をせずに、流動性選好(Liquidity Preference)という言い方をして、貨幣供給(Money Supply)という言い方が、需要と均衡するまえの数量を意味することもあれば、需要と均衡したあとの結果としての数量をあらわすこともあり、ひとつの用語が二通りの意味を持つゆえの紛らわしさにある。」

というのがわたくしの推測です。

それが経済学の伝統なのだからしかたがないと意識するしないにかかわらず、高校レベルの社会科でも、紛らわしい用語を経由して、前提の怪しい乗数理論を教えられているというのは、経済損失です。

高校時代に化学で規定量という用語に触れてなんでこんな言い方するんだろうなと思った記憶があって、いまウィキペディアを調べたら、やはり今日の学習指導要領ではもう使われなくなっているようです。

確かに、内生的貨幣供給論が批判対象とする外生的貨幣供給論(正統派の金融論)では、

①借入需要は金利の上がり下がりに応じて貸出能力に一致するか、または、(常に、借入需要>貸出能力なのであるから)金利によって調整不能だとしても貸出能力に一致する。

よって、
②金利という「おカネの価格」の調整機能が働くと働かざるとにかかわらず、外生的に所与とされる貸出能力(によって一意的に決定される貨幣供給)と一致する。

だから、
③貨幣供給という用語のダブルミーニングを気にする必要はないのだ、

ということになります。経済学史をちゃんと勉強せずに想像をこれ以上ふくらませるのは良くないですけど、上記(※)について、流動性選好は取引需要(国民所得に比例?)と投機的需要(金利に反比例?)の足し算だとして、貨幣需要という言い方が経済学では用いられないのは、取引需要(=借入需要?)だけを意味するのかどうかあいまいだとの配慮があったからなのかも知れません。

などなどという愚痴を聞いてもらったうえで、もういちど、《日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない》というブログに目を通していただくと、また見えてくる景色が変わってくると思います。
日本銀行のブタ積み当座預金には意味があるのか?

2016年1月24日日曜日

今よりマシな日本社会をどう作れるか

このような良書が、ジュンク堂書店やアマゾンでは手にはいらないのは残念でなりません。

塩沢由典先生が、アベノミスクの初期段階とも言える2013年5月に書かれた本です(発行・発売=編集グループSURE、2013年7月15日初版第一刷発行)。

おそらくは、車座みたいな雰囲気のなかで、経済学を専門とはされていないものの、世の中の森羅万象について感度の高い先生の知り合いを相手に、経済学の切り口からアベノミクスを中心とする2013年初頭の経済情勢、もう少し翻っては、それまでの【長期停滞】(いわゆる失われた20年)について、口語調で語られています。先生の著書のなかではとっつきやすいものです。

しかし、、、、、、

扱われているテーマはとても重く難儀なものです。語り口が優しいからと言って、容易に理解できるわけではありません。わたくしも付箋を着けながら慎重に繰り返し読んでみました。

【塩沢由典先生と竹中平蔵先生】

驚きました。ご自身では否定されているものの、世間では市場原理主義や新自由主義の権化というレッテルを貼られている竹中平蔵先生とそれほど意見が異ならないという箇所がいっぱい出てきます。

塩沢由典先生が、伝統的な経済学に対して批判的な立場で一貫して研究活動をされてきたこと、おそらくまったく、政官界との距離感は異なることに鑑みれば、新鮮な驚きです。

ところで、竹中平蔵先生が、どんなに政官界に近いとは言え、氏が繰り返し主張する「正社員という制度そのものを廃止すべき」という雇用のあり方の見直しは、氏が一番近い自民党はもちろんのこと、労働組合を捨てきれるはずのない民主党、、、(中略)、、、共産党まで、日本の既成政党でひとつとして政策に掲げているところはありません。

せいぜい、同一労働同一賃金までであって、これ以上に踏み込んだ既得権打破を訴える政党は、ひとつもないのです。

さて、以上をプロローグとして、「今よりマシな日本社会をどう作れるか」の論点をわたくしなりに5つにまとめると、

①アベノミクスは安倍のミックスである
②1991年以降の長期停滞の要因分析
③中国という十数倍もの「賃金格差」かつまたは「労働生産性」を持つ国が日本の(自由)貿易の相手方になるかぎり、日本の中間層の賃金を下げない経済政策がありうるのか?
④高福祉高負担でも経済成長を可能としたスウェーデン・パラドックスは日本でも応用可能なのか?
⑤日本でアメリカ(のシリコンバレーやイスラエルのヘルツリア)のようなベンチャー企業群、ベンチャーキャピタリストが育てられるのか?

①は、第一期アベノミクスの最初の2本の矢「金融緩和」と「財政出動」が一貫性のある経済理論からは意味不明であるという話。まず「金融緩和」についての意味と無意味については、このブログで再三触れてきたところです。つぎに「財政出動」については開放経済かつ変動相場制では(財政出動による有効需要の増加は純輸出の減少で相殺されるので)無意味とするマンデルフレミングモデルについて触れられています。

わたくしはマンデルフレミングモデルのような中立命題っぽい議論が個人的には趣味なのですが、これが現実にいまの国際貿易や国際金融のなかで成り立つかどうかは深く議論をしなければならないでしょう。ここでは深掘りされておらず、むしろ②以下の論点こそ、この著書の真骨頂だと思っています。

②では塩沢由典さんは5つの要因を列挙しておられます。わたくしがいちばん注目したのは、日本経済いや日本社会がキャッチアップ(さえすれば成長できていた)ステージからトップランナー(にならなくては成長を続けられない)ステージに変質したという指摘です。言い換えれば「成功の罠」の問題です【p35~p37】。

なんとなく世の中全体としてバブルの崩壊(バブルを作ってしまったこと、かつまたは弾けさせてしまったこと)とその後の対処の悪さが長期停滞のダントツの原因だと思われているところがあるなかで、この指摘は目から鱗です。

【にんにくも石炭も掘れないわけではないけれど・・・・・・】

さて、いよいよ核心部分の③と④について。。。。。。

いまでも近所のスーパーに行くと、国産のにんにくが1個100円で、その隣に中国産のが10個100円で売られていたりします。

2013年に塩沢先生が同著を上梓されたころと、中国経済が崩落しはじめている現在とでは、にんにく以外の財やサービスの価格差は多かれ少なかれ縮んできていると思います。

とは言え、保護貿易や鎖国という禁じ手以外の方法で、農業やホワイトカラー中間層など、多かれ少なかれ既得権を有する労働者の賃金を守る、または増やす、なんてことができるのでしょうか?

塩沢先生はこの本の真骨頂である「サービス経済化」を提唱する【p68~】のなかで、

「日本の農業人口が60%(1920年代)から3%(2012年)に落ちたのは、農業の生産性が落ちたからではなく、むしろ非常に大きく向上したからだ。」

「製造業でも同じことが起こりつつある。。。が、日本の生産性(の向上)/賃金の高さ<<中国(や韓国)の生産性(の向上)/賃金の低さ」

「鉱(山)業の従事者の減少は、別の論理。鉱山が枯渇したから。」

サービス業以外の雇用の減少について、農業と製造業は理由が似ている(が製造業については国際競争にさらされている)。鉱業は理由が異なる。という整理です。

賃金と労働生産性の(A)時系列での変化と(B)横断面での絶対水準の国際比較が入り混じっていてやや複雑です。

【どうして賃金を上げないのか?】

塩沢由典先生は、p105で、「この20年間、日本の経済は確かに低迷しているけれど、私は労働生産性が落ちたとはけっして思っていません。むしろ上がっている。ですから、それに相応するだけ、賃金を上げるべきだし、それを上げないのは、経営者が逃げているのだと思います。」と述べます。

これは上記(A)だけからは導き出せますが、(B)との両立は難しいと思われます。

p117では「鄧小平が出てきて、改革開放ということを言い出すまでは、大々的に海外との取引をすることは少なかった。ところが突然どんどん貿易を自由化してゆく。。。。。。世界経済に占める中国という存在が大きく変わった。中国と日本では、賃金が平均で何十倍もちがっていたし、都市部の給料だって、20倍くらいちがった。いくら粗雑で仕事の仕方が悪いと言っても、文明を持った国民なんだから、それだけ賃金が違えば当然競争力は持てる」と。

ここは上記(B)から帰結する話です。

わたくしの考えは、、、、、、新自由主義と言われようと言われまいと、(A)より(B)を優先せずに、民間企業が国際競争を勝ち抜くのは不可能であるということ。ただし、ただいま多くの日系企業が中国現地生産の出口を模索するという局面にあり、実は出口がない(「工場もノウハウも全部置いてゆけ。」と命ぜられ換金できずにいる)という、標準的な資本主義国家ではありえないような理不尽に直面している経営者が多いこと。ゆえに、統計上の賃金と生産性だけから国際分業を論じるほど現実は簡単ではない(よって日本も捨てたものではない)ということを指摘しておきたいと思います。

【スウェーデン・パラドックス】
④について。塩沢由典先生は「道州制でいろいろ試してみてもよい」【p111~】で、
「ミュルダール夫妻がかいた本が基礎となって、スウェーデンの社会民主党の政策は形作られた。それが受け入れられて、スウェーデンの戦後の体制が生まれてきた。こういうのは、やはり、スウェーデンが今でも人口900万人程度の規模だから可能だったんでしょう。」

これは、わたくしの記憶が間違っていなければ、竹中平蔵先生がNHKの「日本の、これから」で年金問題を討論したときにまったく同じことを指摘されていたと思います。

人口がある程度以上大きい中央集権国家で国民負担率の高い制度を実現すると何となく動脈硬化を起こしそうなイメージはあります。しかし、塩沢由典先生が別の箇所【p92~】で述べられているように、平均的な日本人が抱いている《高福祉国家=労働者の既得権が高い制度》という思い込みを排除することこそスウェーデン・パラドックスを解き明かす鍵だと思うのです。

つまり、

「日本の場合には、企業はいったん正規雇用をすると、基本的には定年退職まで解雇しないことになっていますね。そうすると、衰退産業は、無理しても雇用を維持しなきゃいけない。。。。。。日本の終身雇用は、ある意味で社会保障の一部でした。。。。。。スウェーデンの場合、、、、、、、例えばある企業を解雇されたら二年くらいは大学に入り直すことができる。基本的には学費と生活費を出してくれる。。。。。。」

是非、七転び八起きブログの読者のみなさまには塩沢由典先生の「今よりマシな日本社会をどう作れるか」を手にとって読んでいただきたいので、これ以上の引用は避けますが、やはりわたくしはこの雇用慣行の抜本見直しを伴うセーフティネットの充実が日本の閉塞感を打破する鍵であり、1億人を超える社会でも実現不能ではないと考えています。

しかし、繰り返しになりますが、正社員制度を廃止しようという政治家はひとりも居ません。

最後の⑤のベンチャーが育たない理由も、半分は上記④の病巣で説明できると思います。ただし、それだけで、日本にグーグルやフェイスブックやアップルのような企業がどんどん産まれ育つとか、シャープや東芝がインテルみたいに生まれ変わるなどとは思っていません。正月元旦のテレビ朝日朝まで生テレビで自民党の山本一太先生が「日本にはシリコンバレーの真似は出来ない」と発言していましたが、誰も反論していませんでした。